仕事の量(1)

 素晴らしい理科の実験を連発する教員、学級通信を毎日発行する教員、百人を超す部員の部活動日誌を毎日読みコメントを残す教員、素晴らしい教員のエピソードがマスコミに載る。しかしそのためにどれだけの時間を割いているのかあまり報じられることはない。教員は、教科を教えクラスを運営し、部活動の顧問でもあるのだから、これら三つとも同時にこなす教員はいるだろうか。
教員の仕事は際限がない。たった一回の授業にしても綿密な授業設計をし、補助教材を作成して授業にのぞむためにはその数倍の時間が必要なことはいくらでもある。定期的に生徒がどれだけ理解しているか確認のテストをした方がよいだろう。できの悪かった生徒は補習をする。こまめに宿題を課し、提出された宿題はしっかり添削し迅速に返却する。放課後には生徒の質問にこたえる時間も設ける。生徒の学力に合わせて一人一人独自の課題を与え、添削指導をすればより生徒の力を伸ばせる。おくれた子の補習授業、力をもてあます子の発展補習も必要だ。定期試験は、生徒の力をはかり同時にこちらの教育目標が生徒に伝わり生徒自身も達成感を得られるよう作問を工夫し、採点もできるだけていねいにやりたい。(平均点50,標準偏差20位の理想的なテストを作るためには結構な熟練と精密な検討が必要なのです。)長期休暇中の補習、勉強合宿も進路保障のためには欠かせない。教科の指導だけかんがえてもすぐにこれくらいのことは頭に浮かぶ。その上最近の高等学校では、学年がいくつかのコースに分かれその上習熟度別編成をしていたりするから、一人の担当する科目数が増加する。上記のような事を何種類も同時並行で進めることになる。
 クラス担任として、できるだけ生徒との接触を増やし面倒を見る方がよい。学級通信の発行。生徒一人ずつ日誌を書かせ点検する。生徒とのこまめな面談、保護者への緻密な電話連絡、家庭訪問。文化祭などの学校行事のためにクラス参加の準備は緻密に行う方が生徒の達成感が大きい。計画を立て生徒を誘導し学校行事で盛り上がりたい。部活動の時間はその活動に立ち会い指導する。部員一人一人クラス担任と同じように日常の接触を怠らない。全員活動日誌を書かせ点検する。休日の活動も多い方がよい。合宿や遠征もたくさんした方がよい。よりよい成績を残すため、指導者研修を積む必要がある。都道府県、場合によっては全国レベルで部活動団体の役員をやれば、交流が広がり情報も得やすくなる。
更に、教員は学校の運営者であり学校行事の企画立案運営、時間割作成から成績処理、教員研修、カリキュラム改変、進路指導、生活指導、これらの仕事を分担する。これもまた良質の仕事を目指せば際限なく時間を食う。さらに様々な書類作成を主とするデスクワーク。コンピュータとネットワークの普及で仕事が逆に増えた。書類の整理蓄積転送が楽になった分、提出しなければならない書類の量が激増した。
 教員をしていれば常に「できればした方が良いこと」の膨大なリストが頭を巡っている。しかし、一日は二十四時間しかない上に、生きて行かなくてはいけないから適当なところで妥協し、断念しているわけだ。
教員の仕事は労働でありながら、単純に「労働時間」としてはかれない特殊な仕事である。教員に残業はない。かつて残業手当の支払いを巡りトラブルが頻発したため、教員の一月の時間外労働を8時間と見計らって4%の教職調整手当なるものを支給する事となった。かわりに教員の職場から「残業」の概念が消えた。この制度の長所もある。1コマ授業をすると随分エネルギーを使う。様々な事に気を配りながら、全力でパフォーマンスする。にこやかに教室を出てきても教員室に帰れば肉体的にも精神的にも疲れぐったりと椅子に座り込んでしまう。良い授業であればあるほど。そこで授業の合間にゆったりと休憩を取ることは多目に見られてきた。夕刻の一応定められた勤務時間を超せば労働時間ではないのだから適当におやつ食べたり、ゆっくり外で食事をして戻ってきてから残った仕事をこなすことが可能だ。ベルトコンベアーの前に座って定められた時間定められた仕事をし、定められた時間持ち場を離れて休息する様な仕事とは根本的に違う。
一方、教員ほど手を抜こうと思えば手を抜ける職種も少ない。教員が仕事の手を抜いたため解雇される事は、よほど致命的な失敗をしない限りあり得ない。「教員評価」は普及しようとしているが、評価が敏感に給与に反映するようなシステムは殆ど導入されていない。感性さえ麻痺させておけば、よい。手を抜いて給与が下がり生活に困窮することはあり得ない。「廊下教案」といわれるが、多少なれてくれば教員室から教室へ行くまでの間に教科書をざっと見て授業することもできる。試験はなるべく採点が簡単で平均点が高めに出る甘いテストを作りっておき前年度のテストに少々手を加えて試験が終わるようにする。生徒を限度一杯締め上げて静かに授業を聞きノートを取るようトレーニングしておく。クラス担任も同様厳しく締め上げて言うことを聞くようにしておき、大きなトラブルを生まない事だけ注意しておく。部活動は沈滞するよう誘導し活動量をできる限り減らす。提出書類は文句言われる限度まで形式的に書き無駄な労力を使わず、使い回せるものはできるだけコピーペーストで済ます。学校運営についても最低限の仕事をするよう心がけ自分の無能力をアピールし、なるべく仕事が割り当てられないように、要職には就かないように心がける。校長や教頭をはじめ上司となる教員には愛想の限りを尽くしご機嫌を取っておく。生徒や保護者からどんなに誹られてもかまわないだけの自分を正当化する論理を用意し、評判に左右されないようにする。これらをちゃんとやるためには高度の知的緊張が必要で手を抜くのは大変である。過剰労働に甘んじる方が精神的には楽な気がする。少なくとも私は。でも、ここにあげたうちの全てでなくても何項目かを実践してる教員はどこの学校にも必ずいる。上手く立ち回れば、労働基準法に合致した時間だけの労働で他の教員と同じ給料をもらうことはできる。
高等学校では現在公立私立全体を巻き込んだ競争が進んでいる。公立高校では「輪切り教育」への批判から生まれた小学区制が殆ど廃止され広域学区の中で少しでも高い評価を得ようと公立学校同志がしのぎを削る。底辺に組み込まれたときの苦労を回避しようとする。大学進学できる公立高校作りが教育政策の目玉となり、行政は管理職を通じ学校に圧力をかける。私学は、生徒減少の中でパイの奪い合い。少しでも多くの、「優秀」な生徒を確保することに生活がかかっていると威かされる。結果熾烈なサービス提供合戦が繰り広げられる。「クレーマー」「モンスター」とマスコミで騒がれる様な保護者は割合としては小数だが、全体として保護者の学校への要求と依存は三十年前に比べはるかに強くなっている。かつて保護者の圧力から教員を防衛していた管理職は、逆に保護者と同じ側に立って教員を駆り立てる。こうして、何の外圧がなくても過剰労働が慢性的に生まれる職場に、さらに管理職からのドライブがかかり、不安があおられる。過剰労働がさらに重ねられているのが現状だ。小中でも学力テストの点が公表され、学校選択制が始まり似たような状況が生まれている様に思える。