少人数教育-仕事量(2)

教員の過剰労働の原理は単純だ。
期待される仕事量>教員数×教員一人あたりの許容仕事量
なのだから、期待される仕事量を減らし、教員数を増やせばよい。そして単純にかんがえれば、教育の質を落とさないためには、まず教員数に手を付ける。しかしこれがうまく行かないのだ。現に生徒数は減少を続けており、教員一人あたりの生徒数も減少している(文部科学省統計)にもかかわらず、教員の過剰労働傾向はやむことがない。
前に述べたように、教員の仕事は恒常的に「積み残し」状態にあり、余裕が生まれればそこに必ず新しい仕事が発生する。新しい仕事を誰かが見つけてしまう。生徒が受ける教育の質は向上するかもしれないが、教員の増員は原理的に教員の過剰労働の解消に役立たない。
もう一つ考慮するべき事がある。教員一人あたりの生徒数が減ると同時に言及されるのが「少人数クラス」だ。一クラスあたりの人数は少なければ少ない程よいと誰もが単純に信じている。しかし話はそう単純ではない。学校教育はそもそも生徒の集団性に依存して成立しているからだ。
これについてはいくらでもたとえを挙げられる。閑散とした遊園地は乗り物乗り放題レストランの食事もすぐ食べられてさぞかし楽しいかというとこれがそうではない。何となく面白くない、うきうきしない。落語が八畳間でお客二人の前で行われて面白いか。ロックのライブコンサートに行って客が二人だったら堪能できるか。
学校教育は祝祭の場である。実際、十数人程度の教室で授業をしても面白くない。教員が面白くないのだから生徒も面白くないだろう。必要な盛り上がりを欠く。数学の授業は(私の専門)言ってみれば集団催眠で、盛り上がりの中で何となくわかった様な幻想を生徒が共有すればよいのである。わかるというのはそういうことだ。こういう幻想の共有はある程度人数がいた方が確実にやりやすい。まず単に数の問題として。更に、「そうか」とさっさとこちらの意図を理解する子、こちらを質問攻めにする子、「わからない」とごねる子、こういう子どもたちが適当に分散している事が必要なのだ。わからないけれど恥をすててどんどん発言してくる生徒がいればしめたものである。こういう生徒に「わかった」と言わせればクラスの全員がわかったような気になる。むしろ、四月の初めにはそういうキャラクターの発見と育成に意識的に取り組む。こういう生徒のセットを十人のクラスに揃えるのはまず確率的に難しい。
またホームルームも十数人のクラスの運営は実は大変難しい。同僚からも「人数少なくて楽で良いですね」と妬まれたりするがそんなことはない。クラスが不安定で据わりが悪い。思春期の子どもたちである。一人一人の精神状態は大変敏感で、時に乱調をきたす。高校三年間で精神的な危機を一回も体験しない高校生などいないだろう。多人数のクラスであればこの個人の不安定さが集団の中に埋没し解消していく。不安定なものもいれば、その時たまたま安定したものもいる。精神的なリーダーシップを取るものが必ず現れる。時間と共に交代しながらも座標軸の原点みたいな生徒が必ずいる。集団とはそういうものだ。少人数クラスにはそれがない。一人の不安定にクラス全体が共振し引きずられる。生徒たちはクラスの中で成長モデルを捜し求める。互いに見合いながら自分を理解し成長の方向を見つける。授業でもそうだ。対象への多様な接し方、理解の仕方を見ながら自分なりの理解を深める。少人数クラスではそれができない。ロールモデルの数が少なすぎる。五十人近いクラスの担任もし、十数人のクラスも担任した経験があるが、事務作業だけを見れば明らかに少人数クラスの方が楽だが、生徒指導全体は五十人近いクラスの方が楽だった。
少人数クラスは、授業にしてもホームルームにしても集団指導ではなく、個人指導の集積物になってしまう。結果、仕事量が激増する。体験的に言うと、三十人以上は安定、二十人以下は不安定。どうもこのあたりに、生徒が集団を形成するか個人に解体するかの分岐点がありそうだ。
学校、教室、授業は祝祭の場であり、教育は生徒が個人として受けているのではない。学校教育のこういう側面は、まわりになかなかわかっていただけない。