どうやって減らすか-仕事量(3)

 教師の過剰労働が減らない根本原因は、学校教育について多くの教員と保護者に共有されている「子供の教育のためには、拘束すればするほど良く、手をかければかけるほど良い」という迷信である。どんな制度改革をしても、生徒を減らす、教員増やすなどの量的な処置をしても、社会全体が学校教育についてこの認識を変えない限り教員の過剰労働は解消しない。先述のような、慢性的「積み残し」の強迫観念をあおる。手をかければかける程良い結果が得られるとかんがえるのは、我々が集約農業の伝統を二千年にわたって引きずってきたからだろうか。ヘリコプターで種籾を直播きした後ほっておくような農業は、我々に創造するのがむつかしい。
そもそも人間は、自分の意志で決定し実行するとき最高最良の結果を残す。歴史的に見ても、個人にそのような余地が生まれるとき新しい時代が生まれる。生徒が自分の意志で決定し実行するとき、生徒は最も効率よく自分を伸ばす。とすれば、大人が次世代を担う子供にまず与えるべきなのは自己管理の方法論であるはずだ。質の向上。これができないから、量の拡大で補おうとする。教員や顧問や親が子供を縛り付ける現状、「管理教育」は、生徒が身につけるべき、生徒に身につけさせるべき自己管理を、大人が代行している結果である。当然効率が悪いから際限なく量的拡大の方向に動く。
 なぜ、生徒の自己管理を指導せず、教師の管理の下に縛り付けることになるのか。まずかんがえられるのは、教員が本能的に求める達成感だ。自己管理を身につけること更に大きく言えば大人になることを生徒は文化として学ぶ。上手く学べたときは自分自身でも気付かない。学校を流れる「空気」を吸収して育つ。それは特定の教員の「おかげ」に還元できない。生徒は自分は自分で育ったと思っている。それが理想だろう。実は、教員の緻密な指導によっていたことに卒業後何十年もたって気付いたりする。これでは満足できない教員が多い。直接生徒と関わり教育の実感を掴みたい。生徒に直接「感謝」して欲しい。悪く言えば恩を売りたいのである。
 自己管理を教えるのは、放任することと外見的によく似ていてしばしば誤解され、非難の対象になるのだが、内実は全く違う。自己管理は、教えなくてはならない。しかし手取足取り教えたら自己矛盾だ。生徒の精密な観察と分析、適切な助言、集団全体の育成と誘導。これらを、あたかも生徒が自分で育った様な実感を持たせながら表面的にはさりげなく行う必要がある。授業技術と同じように、(その一部でもあるのだけれど)熟達には時間と経験が必要だ。今、生徒に自己管理を教えること、本来の意味での「自主性の涵養」が技術として意識されることは殆どない。教育技術として失われようとしている。大体今の若い教員自身「管理教育」で育った世代であり「自主性」などといわれてもピンと来ない方が多い。彼らに自己管理を教えることができるのだろうか。
 不思議なことに、方法の合理性を追求することは教育の世界でなかなかできない。学習指導については予備校の方が恐らく遥かに進んでいる。予備校教師に教職調整手当などない。コストは時間単価で厳密に計算されているから、限られた時間で最高の効率を示すのが優秀な講師なのだ。彼らの監修によって書かれた漫画『ドラゴン桜』は優れた方法論解説書なのだが、学校教員にどれだけ評価されただろうか。スポーツの世界も「精神主義」を脱却できない。桑田真澄氏のようにトレーニングの合理性、練習時間の短縮を説く方もいるのだが、未だ少数派だ。彼は、合理的に組み立てられた練習を短時間集中して取り組んだ方が野球は強くなる、と言う。人間全力で取り組める時間には限界があり、それ以上トレーニングを長くすると、体は力を抜こうとする。そして力を抜いたプレーが身に付いてしまうと。学習でも音楽でもあらゆるトレーニングに当てはまるだろう。学校の部活動は必要か、強くなる必要があるのか、これも検討する必要はあるのだが、ともかくこういう発言をする方が増えるのは素晴らしい。
 『ドラゴン桜』のどこかにこういう台詞があった。
「生徒相互に教えあう習慣があるのは、優れた学校の証拠」
素晴らしい。流石だ。自己管理、合理的トレーニングの大切な項目の一つとして有機的な集団形成は欠かせない。学習指導、生活指導、部活動あらゆる側面で生徒相互の学び合い刺激し合いは生徒を伸ばす。教える側は自分を一度対象化し言語化しないと他人に伝えられない。教わる側は自分と同じ水準の言語で語られたことは最も受け取りやすい。生徒は教員によって育つのではない。生徒集団によって育つ。教員の仕事はそのような集団形成を支援することにある。教員が過剰労働の悪循環を断ち切るためにも、こう考えたい。カルガモを田んぼに放して雑草を取らせ、秋には米と鴨肉を売ることを思いついた人を尊敬する。
 学校で熱心に取り組んでいる教員には、これらのことに既に気付いている方が多数いらっしゃるはずだ。ところが、なかか実践できない。何事にしても撤退するのは難しい。戦争でも、撤退戦は最も知略を必要とするらしい。山岳遭難でも、適切な撤退ができなかったために起こる例は限りない。補習量、模擬試験の回数減らしてもし「進学実績」が悪かったら誰が責任取るのだ。練習時間や対外試合の回数減らしてもし本大会で昨年度実績を下回ったらどうする。保護者や管理職、場合によっては同僚教員の脅迫に耐えて、詰め込み教育から撤退するのは大変難しい。かくして進学指導の取り組み、部活動の練習量は増加の側にしか進まなくなる。これはその他学校行事全般にもおよび、特にPTA関係など形骸化した無駄組織や無駄行事がゴミのように溜まっている。
 根本的には、「進学実績」「部活大会実績」は教育の目的か、根本的に考え直さないとうまく行かないのだろう。「進学実績」「部活大会実績」など結果の一部であって決して目的ではないのだが、我々はどこかで道を踏み間違えてしまった。