昔オランダのある子供が堤防を歩いていて、小さな漏水を発見した。その子供は付近を大人が通りかかるまでずっと堤防の穴に指を差しこんで漏水を押さえ続けた。・・・妙に印象的な話で覚えている。放置しておくと堤防の穴はすぐ拡大し、堤防全体の崩壊につながる。子供はそのことを知っていた。
学校での秩序管理はそれに似ている。生徒一人の身勝手な行動を見逃せば、やがて授業が成立しなくなる、拡大すれば生徒全体の指導が困難になる。その恐怖と背中あわせで教員は仕事をしている。ある意味でサーカスの猛獣使いに似て、常に緊張を強いられている。生徒が授業を壊すのは、簡単だ。示し合わせた数名の生徒が教員の指示に従わなければいい。スマホをいじり続ける、私語をやめない、席に着かない、勝手に教室から出て行く。教員一人では対処できない。教員の体格がどんなによかろうが力が強かろうが、複数名仲間がいれば平気だ。体罰は禁止されている。教員室に連れ出されそうになったら徹底的に抵抗する。この先には様々なストーリー展開の可能性があるが、最悪のケースは公権力の導入つまり警察による決着だろう。現に米国の高校では拳銃を携帯する警察官が常駐している。
1980年代のいわゆる校内暴力は一応沈静化したが
平成 24 年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」について
あたりを見る限り、生徒の学校内での暴力事件は決して減少していない。(統計のとり方が異なり単純比較できないが)管理困難な生徒を抱えた学校の話は聞こえてくる。中学生から自分の学校でまともな授業が成立していないことに対する不満を聞いたこともある。学級崩壊、学校崩壊まで行かなくても、満足に成立していない授業を抱える、中学・高校は結構多いのではないか。
『学校内では生徒は教員の指示にしたがう』このルールの承認によって学校は成り立つ。教員が偉いからではない。サッカーの審判と同様、システムを成立させるための役割分担だ。どんなに素晴らしい授業でも、生徒が先生の話に耳を傾けなければ始まらない。1980年代以降、この体制は、生徒にとって先験的自明なものでなくなった。だから、教員は可能な限りの努力を持ってこの体制維持のため働いてきた。教員集団の団結に綻びが見えれば、生徒に必ずそこをつかれる。生徒集団より強い結束力を維持しその結束を生徒に誇示することが第一条件だ。当然ながらそこには最終的な体罰の可能性も含まれている。学校の秩序を維持するため、敢えて嫌われ役を演じ生徒を威圧する教員がいて学校が成り立っている場合も少なくないはずだ。逆に体罰だけで学校を維持することも出来ない。教員集団による様々な教育行為と生徒管理技術の積み重ねの手段の一つとして、体罰も用いられてきた。
日常的に体罰が行われているわけではない。最終的な体罰の可能性を生徒が承認し生徒自身の行動を抑制して、ただのおっさんを教員と認め指示に従うきっかけになっていればよい。教員の指示に従う事は、生徒の自尊心を大いに傷つける場合がある。そういう生徒がいる。そのときの言い訳として機能することが必要なのだ。門限を守るために家に帰るとき、「親に殴られる」という言い訳が出来ると、周囲の友人も認めてくれるし自分も納得できたりする。体罰はこういう機能をする。
このような学校運営は恐怖政治と思われるかも知れない。しかし、どのような体制にもその体制を維持するための最終手段としての暴力装置はある。どんな平和な国にも警察官がいる。監獄はある。時として死刑を執行する。街の随所に交番があっても、誰も恐怖政治だとは言わない。逆に民衆が警察官の指示に従わなくなったとき、国家は崩壊する。
大阪の高校での「体罰」「自殺」が問題になったとき、「会社では上司が部下に体罰を与えたりしない」と言った評論家がいた。会社では、社員は給料をもらうため働いていて、減給、降格、免職等強力な権力を上司が握っている。体罰のような面倒なことをするまでもない。だから、生徒に給料を払っている警察学校は厳格な規則と過酷な訓練で有名だ。
今まで、学校の秩序維持は、各学校の裁量に委ねられ、最終手段としての体罰も暗黙のうちに承認されてきた。(そのような事実は全く知らなかったと言える人がいるだろうか。)その裁量権の運用は地域により生徒の質により様々だろう。少なくとも、教員集団による学校の秩序維持努力が地域、数学する生徒の保護者から承認され学校が成り立っていた。教員集団に対する保護者の信頼があった。同時に、教員集団はそれだけの質と結束力を維持しなければならなかった。
体罰の一律禁止は、学校秩序を維持する機能を学校から取り上げることになりかねない。生徒管理は柔軟性、即決性を失い硬直化するだろう。いくら行政が制度を整えても、困難校は増加していくと思う。
このような事態が進めば、義務教育から私学を選択する家庭が増え、公立学校はますます荒廃する。一部地域では、公立学校の自由選択制が始まっている。公立学校自体に格差が生まれる。恵まれた家庭に育ち、そのような家庭出身の友人に囲まれて育った子供が、大学の教員養成コースでも増加するだろう。彼らが学校教員として現場に立てば途方に暮れることだろう。
改めての体罰の禁止は、行政と管理職による教員管理進行の一つの現れと解釈している。そして教育行為が集団性を喪失し教員が孤立することが、事態の悪化に拍車をかける。この悪循環をどうしたものだろう。