自分の子の入学式

 学校の入学式を欠席して自分の子供の入学式に出席した教員、授業参観を欠席してのど自慢に出場した教員が、マスコミで取り上げられた。この事件についての意見が2014年7月15日朝日新聞に掲載されている。なぜこのような事がマスコミに取り上げられるのだろう。数十年前ならあり得なかったことだ。
 自分が新入生を迎える日に子供の入学式に出たいとする。我々のこれまでの常識からすれば、およそ次のような経過をたどるはずだ。まず親しい同僚集団に相談する。事なきを得るようなうまい方法があるか検討する。「無理だからやめておけ」と忠告されるかも知れない。うまく行きそうだったら更に学年、学校に議論の輪を拡げ検討する。教員集団全体の了解のもと、対策を実行する。ちょっと考えても、この先生の行動を新入生の保護者に納得してもらえるようなやり方は、教員集団全体が納得しているならいくらでもある。理屈と膏薬はどこにでもつく。これが不可能だったら、子供の入学式への出席を諦める。
 「事件」そのものの詳しい報道を目にしていないのだが、こういう処置がとられていれば、全国紙に取り上げられるような騒ぎにはならなかったはずだ。この先生が教員集団全体に守ってもらうような行動ができなかった、そして教員集団がこの先生を守ろうとしていない。「ああ、こんな学校では仕事をしたくない。」それが私の感想だ。

学校は、少人数の教員が15倍から20倍にあたる数の生徒を年間を通じ管理しなければならない特殊な仕事だ。生徒が毎日朝から学校に来て、ちゃんと座席に座り、教員の話を聞く。これを実現するためには、膨大な努力と細心の注意が必要だ。「自由」「自主性」も教員のコントロール=管理が有効な範囲で初めて意味をなす。少なくとも現在の学校制度はそうできている。生徒から見て気に入らない教員の授業があったら、生徒が学校から出て遊びに行ってしまうようになったら、学校は成り立たない。家畜であればどんな手荒なことも可能だ。一頭ずつ檻に入れても紐でつないでも良い。しかし相手は人間だ。また、同じ人間でも劇場の観客は1日ごとに入れ替わる。前日の失敗が翌日に持ち越されることはない。人間の集団を、年間を通して管理し続けるのは易しい事ではない。
この生徒管理で最も大切な要件は、教員集団の団結力だ。全教員が共通の行動規範を生徒に求め、共通の処置をするからこそ生徒は納得し指示に従う。逆に生徒が管理を逸脱しようとする第一歩は教員集団の団結の裂け目を探し出すこと、もしくは作り出すこと事から始まる。
「××先生は違うこと言ってる」
「こういうとき○○先生ならそんなことしない」
こういう発言は生徒の常套手段だ。これに対し
「嘘を言ってはいけない。決してそんなことはない。我々は共通の規範を要求している。」
と各教員が自信を持って言い返すこと、これが生徒管理の第一歩だ。1980年代、生徒が荒れた時代を乗り切るとき、我々教員はこのことを実感してきた。

別項で、生徒集団の質的変容について書いた。そこで、かつて存在した農村共同体を起点とする共同体の倫理規範が徐々に薄れつつある事を指摘した。教員集団とて同じ事だ。新任教員は5~6年前の高校生だ。現在の30代教員は1990年代の高校生だ。つまり、現在の学校教員の若手半数は、我々の世代が生徒が変わってきたと感じはじめた時代以降にに教育を受けた世代なのだ。すべて同年代の人間で構成される生徒集団と異なり、教員集団は20代から60代までの広がりを持ち、その質的変容は生徒より更に緩やかなものだろう。しかし、教員集団が生徒集団と同様にその質を変えつつあることは、確かだ。
 教員の上からの管理が強まり、かつてのような教員集団の形成がより難しくなりつつある。教員管理を勧める側からすれば、教員集団の機能不全を補うための必要な措置と指摘されるかも知れない。教員集団の質の変化、機能不全、管理強化。いずれにせよ、これらのことが同時に進行している。
 共同体の倫理規範が後退したことにより、教員集団の質に起きた変化を感じるままに述べてみたい。私が、自分の職場で感じて来たことだが、他の学校教員の話、様々な書物やマスコミ報道の内容から、ほぼ同様のことが全国で程度の差こそあれ同時に進行していると思っている。
教員の仕事の内容は、教科指導、生活指導、企画運営、事務処理等多岐にわたる。当然、各教員得手不得手がある。難関大学の受験指導に長けた教員、心の荒れた生徒のケアに優れる教員、・・・教員とて普通の人間、スーパーマンではない。良い教員集団は個々の教員の長所を生かし短所を補う緻密な関係の中で学校を運営する。学級運営にしても担任に任せきりにせず、担任をたてながらも、助言し足りないところを補いあう。生徒の側から見たとき、担任に指導されているより、教師集団全体に指導されているように感じ取れる。こういう関係が年を追って作りづらくなってきた。私の仕事に口を出してくれる同僚が減った。(こちらが年令を重ね口を出しづらくなったことはあるにしろ。)また、他人の意見や介入を忌避する教員が増えた。
 言い換えると個々の教員の垣根が高くなってきた。みんなで広い畑を耕していたのが、垣根をたてて自分の畑を確保し、自分だけで自分の畑だけを育てようとしている。自分の収穫高で自分を評価しようとしている。自分の収穫高が教員の力量として管理職に評価される。水やるの忘れたら、誰かがやっておいてくれる。雑草が伸びてきたら誰かが抜いてくれている。こういう事がなくなった。他の畑を世話してあげると逆に嫌な顔されたりする。かつて我々は、皆で田植えし水源を管理し稲刈りして生き延びてきたはずなのに。
 ごく最近まで我々日本人の間には、手柄を個人的栄誉として誇示するのは醜い事であると感じる、ある意味で屈折した美学が存在した。かつて流行った「任侠映画」の美学である。これも考えてみれば、稲作のような集団作業で栄誉を求める個人的な振る舞いは妨害要因になることが多かった事によるのではないかと思うのだが。常に集団全体が利益を生むように行動し、集団全体の喜びをもって個人の喜びとする。こういう行動原理は、国家のための自己犠牲のような負の側面を生むが、ある機能集団が優れた仕事をするために是非とも必要な原理でもある。個人的栄誉が他者を押し退けて自分を差別化する行為であるのに対し、他者と喜びを共有する方が我々の充足感は大きい。
 具体的に述べるなら、優れた教材や生徒指導法を持つ教員が、自分の評価を高めるためその方法論を秘匿するのか、集団全体の機能を高めるため積極的に公開し共有しようとするのか、その成果の差は明らかだろう。教員が「管理」されるとはこういう事なのだ。また、「校内暴力」と言われた時代、しっかり生徒を指導している学校には、嫌われ役を担う教員が居た。「暴力」を匂わせ生徒を威圧する教員の存在によってかろうじて秩序が保たれている場合はいくらでもあった。これとて目的遂行集団として教員集団が機能していればこそできること。

教師集団の解体は、学級崩壊、モンスターペアレントの出現などの問題と同時並行で進んでいるのだが、実はこれらの問題について少なくとも原因の一部をなしていると私は考えている。

学校教員は「孤立」に向けて追いやられようとしている。そして、先述の朝日新聞でこのことに言及しているのは「ママ」の意見の一部だけだった。