自分の子の入学式(2)

7月15日朝日新聞耕論「教師は聖職か」を読んで。ここでは違和感を少しずつ書いておきたい。

増田氏(教育ジャーナリスト、今春まで現役教員)
 いわゆるモンスターペアレントの対応について。苦情の増加によって、トラブルを避ける事なかれ主義が教育で増えているという。そして、保護者との信頼回復が第1であるとおっしゃる。確かに保護者の無節操なクレームは増えた。この論でも触れられている通り、これはどうも新自由主義の浸透とともに世界中に広まりつつある傾向のようだ。英会話を教えていた若い米国人教員が、(彼は南米、豪州での教育経験もある)どこでもそうだと言っていた。その対応を論じた本も数多く出ているくらいだから、全面的に論じるのはここでは手に余る。私の印象だけ述べる。
 保護者の対応も先述の生徒と同じで、教員の団結の隙を突いてくる。教員が互いに信頼し合い、また信頼に耐えうる仕事をしていれば、クレームの処理はそれ程手間なものでは無いはずなのだ。事なかれ主義も教員間で信頼関係があれば、それ程横行するはずがない。特に管理職と強い信頼関係があれば。保護者対応では、責任者=管理職を含めた組織全体の信頼関係が最も大切なのだ。フランスの例が引かれていたが、この例でもよく考えてみると、管理職が学校組織全体を信頼しているからこそ毅然とした対応ができるのであって、保護者を信頼しているからではない。教員は保護者に信頼してもらう前に同僚教員に信頼してもらわなくてはまともな仕事ができない。増田氏は、保護者との信頼関係を築くために夜に保護者会を開くべきとおっしゃる。また仕事を増やすのですか? その余裕があるなら、教員同士の宴会でも開いている方が、事態の改善に役立つと思うのですが。

真金氏(精神科医) 
 教員の精神疾患が増えている。その原因として、生徒の質的変容、処理すべき仕事の増加が指摘されている。これらを教員に任せきるのではなく、社会全体で考えていくべきだ。お説ごもっとも。その通りだと思う。だが、ここでも教員間の横の関係が全く指摘されていない。そして、学校教育が教員個人と生徒との関係で成立しているような書き方がされている。こういうとらえ方こそが、教員の精神疾患を生むのではないだろうか。
 一教員の仕事を最も良く理解できる立場にいるのは、教員室で机をならべ、共通の生徒を相手にしている同僚教員だ。年配の教員には過去の数多くの経験の蓄積が、若手の教員には新しい考え方とエネルギーがある。生徒の気持ちを理解することに長けた教員もいれば、生徒間の情報収集が上手な教員、問題生徒とわたりをつけることのうまい教員もいる。生徒とのトラブルを含め仕事上の問題点が教員室の同僚でうまく共有されていれば、共有できる関係が成立していれば、教員が精神疾患にまで追い詰められる事はそれ程無いはずだ。教員、長く共に仕事をする同僚教員に対する思いやりと暖かみ無くして、生徒に対する思いやりや暖かみが生まれるはずがない。全ての生徒から長所を発見し伸ばすのが教員の仕事であるなら、まず同僚教員の長所を伸ばし短所を補うことから始めなくてはいけない。教員が孤立するような学校で、まともな教育が行われているはずがない。
 
尾木氏(教育評論家、22年現役教員)
引用する。
『教員の仕事は聖職性が色濃い。それは子供の人生や価値観の形成に、深く関与せざるを得ない仕事だからです。』
『仕事を支えたのが同僚や先輩の親身な助言でした。』
『従来の「ナベブタ型」から「ピラミッド型」組織に近づき、大切な同僚意識が失われました。』
 職業は職業であって「聖」なる職業などあるわけがない。学校教員の仕事は、学校という局所的社会組織への参加のしかたとその内部での学習行為を指導し、その組を円滑に運営することである。職業人=プロフェッショナルとして、このことがきちっと遂行できればよい。結果的に人生や価値観形成に深い影響を受ける生徒もいるだろうし、全く何の影響も受けない生徒もいる。これは結果であって目的ではない。それを言うなら、従業員を雇用する経営者は従業員の人生に選り大きな影響を与える。社会に出て仕事に就いたとたんに、素晴らしい人間に成長する生徒はいくらでもいる。人は、成長の過程でそして長い人生でふれ合う他者から影響を受ける。これはあたり前なのであって、いちいち「聖」なる言葉をつける必要はない。
 職業的特殊性で言うなら、教員という職業は精神的な健康が求められることだろうか。肺結核を患ったお医者さんに治療行為が無理であるように。そのために必要なのは、教員が労働者としてまともな権利が保障され、それが行使されることだ。確かに人間との接触が仕事の職業である。精神的負担は大きい。だからこそ、労働者としてのまともな生活が必要なのだ。成長期の子供にとって教員は比較的身近に接することができる大人であり、成長モデルとして採用しやすい。そういう目で教員を見ている。教員は喜びのある明るい未来を感じさせる生活を自分自身がまず営むべきなのだ。民主主義社会での労働者としての権利はしっかり行使し、それを生徒に見せていくべきだ。あえて聖と言うならそれが教員の聖職性であろう。
 更に言うなら、教員は生徒の人生に影響を与えるなどと思うべきでない。快適な学校生活が提供できればそれで十分だ。学校生活を通じて子供が少しでも自己評価を高められるようにする。私の生徒指導の目標である。教員と生徒との出会いは偶然であり、かつ数年に限られる限定的、社会的なものだ。生徒に一生寄り添うことなど決してできない。「心の底から心配している」などたいていの場合欺瞞にすぎない。本当にその子の一生を思うなら、その子の一生に責任を負わなくてはならない。養子にして育てるか、結婚するか冗談抜きにその覚悟が必要である。それができない、これが生徒と教師の出会いの出発点なのだ。長い間教員の仕事をれば数千人の子供たちを教え、数百人の子供の担任をする。誰がその人生に責任を持てるのだ。教員が誠実に仕事をするためにはある種の冷たさ、言葉を換えれば冷静な認識が必要だと思う。子供と一生寄り添える存在、これは家族しかない。教員の仕事は、せいぜい子供と家族の出会いを修復することのお手伝いくらいだ。さらに、このことを専門とする社会組織はカウンセラーから果ては少年院まで、別にある。手に負えぬ問題はプロに委ねるべきで、それが教員としてのプロがすることだ。
 もちろん、学校を離れても未だつきあいの続く生徒はいる。生徒-教員の枠を越えて互いに一個人としてあらためて出会いつきあいを深めた。これは教員として嬉しいことだが、これもまた社会生活を通じてどこでも起きる当たり前のことだ。どんな職業でも、人間としての出会いがある。
尾木氏は教員時代、『時には、「問題児」とされる生徒の家庭を訪ね、深夜まで語り合いました。』と書いているが、教員をやれば多かれ少なかれ必ずしなくてはならないことで、特に誇るべき事でも珍しいことでもない。台風が来たので徹夜で田んぼを見ていました、というのと変わりがない。ここで違和感を感じるとすれば、彼の個人プレーの匂いである。先の引用でも、『助言をもらった』とは書いているが、共に仕事をしたと書いていない。この著名な教育評論家でも、教員の仕事を個人の仕事としか認識していないように思われる。悲壮感を伴った個人プレーはマスコミ受けする。いかにも生徒のためになっているように見える。しかし周囲の教員の立場と仕事が見えない、ヒューマニズム、ヒロイズムは実際の学校では限りなく迷惑な場合が多い。荒れた学校での生徒指導は先述の通り、教員集団全体のきめ細かい連携が欠かせない。その仕事の一つとして、また他の教員の仕事に支えられて「深夜の家庭訪問」が成立する。彼にどれだけ周囲が見えているのだろう。
その点で言うなら、組織がナベブタからピラミッドに変わったことが問題なのではない。縦糸が太くなって、横糸が切れかけていることが問題なのだ。繰り返し書いているように、現場教員の密接な相互関係が学校運営で最も必要とされるものだ。教員の横の関係がしっかりしていれば、必要なだけの縦の関係は自然にできあがる。その関係がナベブタかピラミッドかは対処しなければならない仕事の質から自然に決定され、形を整える。ところが、縦の関係を先に強めれば強めるほど横の関係は希薄になっていく。それは、双方向の縦の関係でなく、上から下の縦の関係だからだ。新自由主義とはそういう時代なのだろう。