素晴らしい理科の実験を連発する教員、学級通信を毎日発行する教員、百人を超す部員の部活動日誌を毎日読みコメントを残す教員、素晴らしい教員のエピソードがマスコミに載る。しかしそのためにどれだけの時間を割いているのかあまり報じられることはない。教員は、教科を教えクラスを運営し、部活動の顧問でもあるのだから、これら三つとも同時にこなす教員はいるだろうか。
教員の仕事は際限がない。たった一回の授業にしても綿密な授業設計をし、補助教材を作成して授業にのぞむためにはその数倍の時間が必要なことはいくらでもある。定期的に生徒がどれだけ理解しているか確認のテストをした方がよいだろう。できの悪かった生徒は補習をする。こまめに宿題を課し、提出された宿題はしっかり添削し迅速に返却する。放課後には生徒の質問にこたえる時間も設ける。生徒の学力に合わせて一人一人独自の課題を与え、添削指導をすればより生徒の力を伸ばせる。おくれた子の補習授業、力をもてあます子の発展補習も必要だ。定期試験は、生徒の力をはかり同時にこちらの教育目標が生徒に伝わり生徒自身も達成感を得られるよう作問を工夫し、採点もできるだけていねいにやりたい。(平均点50,標準偏差20位の理想的なテストを作るためには結構な熟練と精密な検討が必要なのです。)長期休暇中の補習、勉強合宿も進路保障のためには欠かせない。教科の指導だけかんがえてもすぐにこれくらいのことは頭に浮かぶ。その上最近の高等学校では、学年がいくつかのコースに分かれその上習熟度別編成をしていたりするから、一人の担当する科目数が増加する。上記のような事を何種類も同時並行で進めることになる。
クラス担任として、できるだけ生徒との接触を増やし面倒を見る方がよい。学級通信の発行。生徒一人ずつ日誌を書かせ点検する。生徒とのこまめな面談、保護者への緻密な電話連絡、家庭訪問。文化祭などの学校行事のためにクラス参加の準備は緻密に行う方が生徒の達成感が大きい。計画を立て生徒を誘導し学校行事で盛り上がりたい。部活動の時間はその活動に立ち会い指導する。部員一人一人クラス担任と同じように日常の接触を怠らない。全員活動日誌を書かせ点検する。休日の活動も多い方がよい。合宿や遠征もたくさんした方がよい。よりよい成績を残すため、指導者研修を積む必要がある。都道府県、場合によっては全国レベルで部活動団体の役員をやれば、交流が広がり情報も得やすくなる。
更に、教員は学校の運営者であり学校行事の企画立案運営、時間割作成から成績処理、教員研修、カリキュラム改変、進路指導、生活指導、これらの仕事を分担する。これもまた良質の仕事を目指せば際限なく時間を食う。さらに様々な書類作成を主とするデスクワーク。コンピュータとネットワークの普及で仕事が逆に増えた。書類の整理蓄積転送が楽になった分、提出しなければならない書類の量が激増した。
教員をしていれば常に「できればした方が良いこと」の膨大なリストが頭を巡っている。しかし、一日は二十四時間しかない上に、生きて行かなくてはいけないから適当なところで妥協し、断念しているわけだ。
教員の仕事は労働でありながら、単純に「労働時間」としてはかれない特殊な仕事である。教員に残業はない。かつて残業手当の支払いを巡りトラブルが頻発したため、教員の一月の時間外労働を8時間と見計らって4%の教職調整手当なるものを支給する事となった。かわりに教員の職場から「残業」の概念が消えた。この制度の長所もある。1コマ授業をすると随分エネルギーを使う。様々な事に気を配りながら、全力でパフォーマンスする。にこやかに教室を出てきても教員室に帰れば肉体的にも精神的にも疲れぐったりと椅子に座り込んでしまう。良い授業であればあるほど。そこで授業の合間にゆったりと休憩を取ることは多目に見られてきた。夕刻の一応定められた勤務時間を超せば労働時間ではないのだから適当におやつ食べたり、ゆっくり外で食事をして戻ってきてから残った仕事をこなすことが可能だ。ベルトコンベアーの前に座って定められた時間定められた仕事をし、定められた時間持ち場を離れて休息する様な仕事とは根本的に違う。
一方、教員ほど手を抜こうと思えば手を抜ける職種も少ない。教員が仕事の手を抜いたため解雇される事は、よほど致命的な失敗をしない限りあり得ない。「教員評価」は普及しようとしているが、評価が敏感に給与に反映するようなシステムは殆ど導入されていない。感性さえ麻痺させておけば、よい。手を抜いて給与が下がり生活に困窮することはあり得ない。「廊下教案」といわれるが、多少なれてくれば教員室から教室へ行くまでの間に教科書をざっと見て授業することもできる。試験はなるべく採点が簡単で平均点が高めに出る甘いテストを作りっておき前年度のテストに少々手を加えて試験が終わるようにする。生徒を限度一杯締め上げて静かに授業を聞きノートを取るようトレーニングしておく。クラス担任も同様厳しく締め上げて言うことを聞くようにしておき、大きなトラブルを生まない事だけ注意しておく。部活動は沈滞するよう誘導し活動量をできる限り減らす。提出書類は文句言われる限度まで形式的に書き無駄な労力を使わず、使い回せるものはできるだけコピーペーストで済ます。学校運営についても最低限の仕事をするよう心がけ自分の無能力をアピールし、なるべく仕事が割り当てられないように、要職には就かないように心がける。校長や教頭をはじめ上司となる教員には愛想の限りを尽くしご機嫌を取っておく。生徒や保護者からどんなに誹られてもかまわないだけの自分を正当化する論理を用意し、評判に左右されないようにする。これらをちゃんとやるためには高度の知的緊張が必要で手を抜くのは大変である。過剰労働に甘んじる方が精神的には楽な気がする。少なくとも私は。でも、ここにあげたうちの全てでなくても何項目かを実践してる教員はどこの学校にも必ずいる。上手く立ち回れば、労働基準法に合致した時間だけの労働で他の教員と同じ給料をもらうことはできる。
高等学校では現在公立私立全体を巻き込んだ競争が進んでいる。公立高校では「輪切り教育」への批判から生まれた小学区制が殆ど廃止され広域学区の中で少しでも高い評価を得ようと公立学校同志がしのぎを削る。底辺に組み込まれたときの苦労を回避しようとする。大学進学できる公立高校作りが教育政策の目玉となり、行政は管理職を通じ学校に圧力をかける。私学は、生徒減少の中でパイの奪い合い。少しでも多くの、「優秀」な生徒を確保することに生活がかかっていると威かされる。結果熾烈なサービス提供合戦が繰り広げられる。「クレーマー」「モンスター」とマスコミで騒がれる様な保護者は割合としては小数だが、全体として保護者の学校への要求と依存は三十年前に比べはるかに強くなっている。かつて保護者の圧力から教員を防衛していた管理職は、逆に保護者と同じ側に立って教員を駆り立てる。こうして、何の外圧がなくても過剰労働が慢性的に生まれる職場に、さらに管理職からのドライブがかかり、不安があおられる。過剰労働がさらに重ねられているのが現状だ。小中でも学力テストの点が公表され、学校選択制が始まり似たような状況が生まれている様に思える。
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学校の役割
諏訪哲二 学校のモンスター からの引用
学校が子供(「私以前の私」)を社会的個人(「私」)にすると信じられていたのは一九六〇年頃まで日本の「農業社会的」近代においてである。現在は子供たちは学校へ入るとき、すでに「個」の意識を強く持っている。学校より先に、テレビなどの情報メディアやお金(市場経済)が、子供たちを消費主体としての個人に仕立て上げている。P103
これから学校で育成すべきなのは、生きることの価値にかかわる、あるいは、よりよく生きることを目指す垂直的、かつ「公共的な個」(公を内面化した「私」)であろう。P104
大きく分けて二点の問題を指摘したい。
「農業社会的」近代=あまねくあった学校への信頼の時代なのだろう、子供を社会的個人にすると信じることができたのだろう。しかし、それは教師が勝手に信じていただけで実体はそうではない。これまで仕事をしてきた経験からそう思う。この三〇年を見ても子供達の社会性は未熟化する傾向にある。かつての子供達の方が集団形成に熟達していた。かつて、子供達は学校で生徒として振る舞うに必要な能力を身につけて学校に入ってきた。もしくは生徒として育てる事が可能な下地を入学時には形成していた。そう言い換えるべきなのだ。学校が社会性を養っていたのではない。子供達の社会性を育てる過程の一翼を担うことが容易であったにすぎない。
個とは他者の意識と対になったものである。21世紀の消費社会の個の意識について私には論じる能力はない。ただ実感として近年の子供達は自我の輪郭が不明瞭で「個」としての意識を強く持っているようにはとても思えない。消費主体として合理的に生きるにはどうすればよいかわかっている生徒達ばかりなら、それはそれで指導しやすいクラスが生まれるに違いないからだ。どのように振る舞えば、快適でかつ最小の努力で必要なものを身につけて学校を出て行くことができるか、議論を闘わせることができる生徒達だったらどんなに素晴らしいか。単に、未熟なだけ。また場を変えて述べたいが、『「農業社会的」近代』から自由であるという意味で今の生徒は大きな長所も持っている。
もう一つ、同書には繰り返し「社会」「公」という言葉が登場するがその内容は殆ど論じられていない。たとえば家族、隣近所、親族はそれぞれ質の違った「公」であるし、子供が十人野原でかくれんぼしていればそこにはそこの「公」が成立している。21世紀エネルギーの消費は地球全体の「公」の問題である。そういう様々に異質な「公」を一括して論じているところに諏訪氏の論説の基本的問題がある。学校にできることは、学校という「公」を視野を持った子供達を育てることであってそれ以上ではない。そして学校という「公」は学校だけの局所的なものであって決して他の「公」と等しくはない。家族、地域、国家、世界はそれぞれ位相を異にする「公」なのであって、学校にできることはせいぜいそのこと、様々な位相を異にする「公」が存在することを子供達にわからせていくことだけなのだ。子供達は学校というローカル共同体に参加する事でその一つの過程を通過して行く。
学校という「公」があくまで局所的なもの、局所的な共同体である事を、その共同体を運営する側、教師が強く自覚する必要がある時代がやってきた。かつては、共同体的な掟がそれぞれの「公」を自然に異質なものとして立ち上げていた。現在その「公」の境界が薄れ見方によっては均質な平面に見えるようになってきたところに、現在の教育が抱える困難があるように思う。
少人数教育-仕事量(2)
教員の過剰労働の原理は単純だ。
期待される仕事量>教員数×教員一人あたりの許容仕事量
なのだから、期待される仕事量を減らし、教員数を増やせばよい。そして単純にかんがえれば、教育の質を落とさないためには、まず教員数に手を付ける。しかしこれがうまく行かないのだ。現に生徒数は減少を続けており、教員一人あたりの生徒数も減少している(文部科学省統計)にもかかわらず、教員の過剰労働傾向はやむことがない。
前に述べたように、教員の仕事は恒常的に「積み残し」状態にあり、余裕が生まれればそこに必ず新しい仕事が発生する。新しい仕事を誰かが見つけてしまう。生徒が受ける教育の質は向上するかもしれないが、教員の増員は原理的に教員の過剰労働の解消に役立たない。
もう一つ考慮するべき事がある。教員一人あたりの生徒数が減ると同時に言及されるのが「少人数クラス」だ。一クラスあたりの人数は少なければ少ない程よいと誰もが単純に信じている。しかし話はそう単純ではない。学校教育はそもそも生徒の集団性に依存して成立しているからだ。
これについてはいくらでもたとえを挙げられる。閑散とした遊園地は乗り物乗り放題レストランの食事もすぐ食べられてさぞかし楽しいかというとこれがそうではない。何となく面白くない、うきうきしない。落語が八畳間でお客二人の前で行われて面白いか。ロックのライブコンサートに行って客が二人だったら堪能できるか。
学校教育は祝祭の場である。実際、十数人程度の教室で授業をしても面白くない。教員が面白くないのだから生徒も面白くないだろう。必要な盛り上がりを欠く。数学の授業は(私の専門)言ってみれば集団催眠で、盛り上がりの中で何となくわかった様な幻想を生徒が共有すればよいのである。わかるというのはそういうことだ。こういう幻想の共有はある程度人数がいた方が確実にやりやすい。まず単に数の問題として。更に、「そうか」とさっさとこちらの意図を理解する子、こちらを質問攻めにする子、「わからない」とごねる子、こういう子どもたちが適当に分散している事が必要なのだ。わからないけれど恥をすててどんどん発言してくる生徒がいればしめたものである。こういう生徒に「わかった」と言わせればクラスの全員がわかったような気になる。むしろ、四月の初めにはそういうキャラクターの発見と育成に意識的に取り組む。こういう生徒のセットを十人のクラスに揃えるのはまず確率的に難しい。
またホームルームも十数人のクラスの運営は実は大変難しい。同僚からも「人数少なくて楽で良いですね」と妬まれたりするがそんなことはない。クラスが不安定で据わりが悪い。思春期の子どもたちである。一人一人の精神状態は大変敏感で、時に乱調をきたす。高校三年間で精神的な危機を一回も体験しない高校生などいないだろう。多人数のクラスであればこの個人の不安定さが集団の中に埋没し解消していく。不安定なものもいれば、その時たまたま安定したものもいる。精神的なリーダーシップを取るものが必ず現れる。時間と共に交代しながらも座標軸の原点みたいな生徒が必ずいる。集団とはそういうものだ。少人数クラスにはそれがない。一人の不安定にクラス全体が共振し引きずられる。生徒たちはクラスの中で成長モデルを捜し求める。互いに見合いながら自分を理解し成長の方向を見つける。授業でもそうだ。対象への多様な接し方、理解の仕方を見ながら自分なりの理解を深める。少人数クラスではそれができない。ロールモデルの数が少なすぎる。五十人近いクラスの担任もし、十数人のクラスも担任した経験があるが、事務作業だけを見れば明らかに少人数クラスの方が楽だが、生徒指導全体は五十人近いクラスの方が楽だった。
少人数クラスは、授業にしてもホームルームにしても集団指導ではなく、個人指導の集積物になってしまう。結果、仕事量が激増する。体験的に言うと、三十人以上は安定、二十人以下は不安定。どうもこのあたりに、生徒が集団を形成するか個人に解体するかの分岐点がありそうだ。
学校、教室、授業は祝祭の場であり、教育は生徒が個人として受けているのではない。学校教育のこういう側面は、まわりになかなかわかっていただけない。
どうやって減らすか-仕事量(3)
教師の過剰労働が減らない根本原因は、学校教育について多くの教員と保護者に共有されている「子供の教育のためには、拘束すればするほど良く、手をかければかけるほど良い」という迷信である。どんな制度改革をしても、生徒を減らす、教員増やすなどの量的な処置をしても、社会全体が学校教育についてこの認識を変えない限り教員の過剰労働は解消しない。先述のような、慢性的「積み残し」の強迫観念をあおる。手をかければかける程良い結果が得られるとかんがえるのは、我々が集約農業の伝統を二千年にわたって引きずってきたからだろうか。ヘリコプターで種籾を直播きした後ほっておくような農業は、我々に創造するのがむつかしい。
そもそも人間は、自分の意志で決定し実行するとき最高最良の結果を残す。歴史的に見ても、個人にそのような余地が生まれるとき新しい時代が生まれる。生徒が自分の意志で決定し実行するとき、生徒は最も効率よく自分を伸ばす。とすれば、大人が次世代を担う子供にまず与えるべきなのは自己管理の方法論であるはずだ。質の向上。これができないから、量の拡大で補おうとする。教員や顧問や親が子供を縛り付ける現状、「管理教育」は、生徒が身につけるべき、生徒に身につけさせるべき自己管理を、大人が代行している結果である。当然効率が悪いから際限なく量的拡大の方向に動く。
なぜ、生徒の自己管理を指導せず、教師の管理の下に縛り付けることになるのか。まずかんがえられるのは、教員が本能的に求める達成感だ。自己管理を身につけること更に大きく言えば大人になることを生徒は文化として学ぶ。上手く学べたときは自分自身でも気付かない。学校を流れる「空気」を吸収して育つ。それは特定の教員の「おかげ」に還元できない。生徒は自分は自分で育ったと思っている。それが理想だろう。実は、教員の緻密な指導によっていたことに卒業後何十年もたって気付いたりする。これでは満足できない教員が多い。直接生徒と関わり教育の実感を掴みたい。生徒に直接「感謝」して欲しい。悪く言えば恩を売りたいのである。
自己管理を教えるのは、放任することと外見的によく似ていてしばしば誤解され、非難の対象になるのだが、内実は全く違う。自己管理は、教えなくてはならない。しかし手取足取り教えたら自己矛盾だ。生徒の精密な観察と分析、適切な助言、集団全体の育成と誘導。これらを、あたかも生徒が自分で育った様な実感を持たせながら表面的にはさりげなく行う必要がある。授業技術と同じように、(その一部でもあるのだけれど)熟達には時間と経験が必要だ。今、生徒に自己管理を教えること、本来の意味での「自主性の涵養」が技術として意識されることは殆どない。教育技術として失われようとしている。大体今の若い教員自身「管理教育」で育った世代であり「自主性」などといわれてもピンと来ない方が多い。彼らに自己管理を教えることができるのだろうか。
不思議なことに、方法の合理性を追求することは教育の世界でなかなかできない。学習指導については予備校の方が恐らく遥かに進んでいる。予備校教師に教職調整手当などない。コストは時間単価で厳密に計算されているから、限られた時間で最高の効率を示すのが優秀な講師なのだ。彼らの監修によって書かれた漫画『ドラゴン桜』は優れた方法論解説書なのだが、学校教員にどれだけ評価されただろうか。スポーツの世界も「精神主義」を脱却できない。桑田真澄氏のようにトレーニングの合理性、練習時間の短縮を説く方もいるのだが、未だ少数派だ。彼は、合理的に組み立てられた練習を短時間集中して取り組んだ方が野球は強くなる、と言う。人間全力で取り組める時間には限界があり、それ以上トレーニングを長くすると、体は力を抜こうとする。そして力を抜いたプレーが身に付いてしまうと。学習でも音楽でもあらゆるトレーニングに当てはまるだろう。学校の部活動は必要か、強くなる必要があるのか、これも検討する必要はあるのだが、ともかくこういう発言をする方が増えるのは素晴らしい。
『ドラゴン桜』のどこかにこういう台詞があった。
「生徒相互に教えあう習慣があるのは、優れた学校の証拠」
素晴らしい。流石だ。自己管理、合理的トレーニングの大切な項目の一つとして有機的な集団形成は欠かせない。学習指導、生活指導、部活動あらゆる側面で生徒相互の学び合い刺激し合いは生徒を伸ばす。教える側は自分を一度対象化し言語化しないと他人に伝えられない。教わる側は自分と同じ水準の言語で語られたことは最も受け取りやすい。生徒は教員によって育つのではない。生徒集団によって育つ。教員の仕事はそのような集団形成を支援することにある。教員が過剰労働の悪循環を断ち切るためにも、こう考えたい。カルガモを田んぼに放して雑草を取らせ、秋には米と鴨肉を売ることを思いついた人を尊敬する。
学校で熱心に取り組んでいる教員には、これらのことに既に気付いている方が多数いらっしゃるはずだ。ところが、なかか実践できない。何事にしても撤退するのは難しい。戦争でも、撤退戦は最も知略を必要とするらしい。山岳遭難でも、適切な撤退ができなかったために起こる例は限りない。補習量、模擬試験の回数減らしてもし「進学実績」が悪かったら誰が責任取るのだ。練習時間や対外試合の回数減らしてもし本大会で昨年度実績を下回ったらどうする。保護者や管理職、場合によっては同僚教員の脅迫に耐えて、詰め込み教育から撤退するのは大変難しい。かくして進学指導の取り組み、部活動の練習量は増加の側にしか進まなくなる。これはその他学校行事全般にもおよび、特にPTA関係など形骸化した無駄組織や無駄行事がゴミのように溜まっている。
根本的には、「進学実績」「部活大会実績」は教育の目的か、根本的に考え直さないとうまく行かないのだろう。「進学実績」「部活大会実績」など結果の一部であって決して目的ではないのだが、我々はどこかで道を踏み間違えてしまった。
勤務時間についての文科省の認識
学校の組織運営のあり方を踏まえた教職調整額の見直等に関する検討会議
審議のまとめ
から抜粋 下線筆者
2 教員の勤務時間管理、時間外勤務、適切な処遇の在り方
(1)現状と課題 から
①教員の勤務時間管理
教職員間での役割分担と協力関係を作りつつ、学校の組織的運営を行っていく上で、校長や副校長・教頭などが教職員の勤務の状況を把握することは、その当然の前提となるものである。また、公立学校の教員を含む地方公務員には、労働基準法第32条などの労働時間に係る規制が適用されている以上、校長などは、部下である教職員の勤務時間外における業務の内容やその時間数を適正に把握するなど、適切に管理する責務を有している。
さらに、労働時間の適正な把握については、平成13年に厚生労働省が、使用者に労働者の労働時間を適正に把握する責務があることを改めて明確にし、労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置を示した「労働時間の適切な把握のために使用者が講ずべき措置に関する基準」を策定している。これは公立学校にも適用されるものであり、この中で、始業、終業時刻を確認し記録することなどが示されている。
しかしながら、公立学校の管理職以外の教員には、労働基準法第37条の時間外労働における割増賃金の規定が適用除外となっており、時間外勤務の時間数に応じた給与措置である時間外勤務手当が支給されず、全員一律に給料に4パーセントの定率を乗じた額の教職調整額が支給されている。このような現行制度の下では、実態として月々の給与を支給する上で管理職が部下である教員の時間外勤務の状況やその時間数を把握する必要に迫られることが少ない。
また、これが、教員には労働基準法第37条が適用除外となっているだけであるにもかかわらず、労働基準法による労働時間に係る規制が全て適用除外されており、管理職は教員の時間外勤務やその時間数を把握する必要はないという誤解が生じている一因にもなっていると考える。
~以下略
確かに、自分が月何時間働いたか私自身が厳密な集計をした事はなかったし、管理職がそれを把握した事もなかった。『教員には労働基準法第37条が適用除外となっているだけ』との認識は教員自身にもないのではないか。ちなみに労働基準法第36条いわゆる「36」に関して厚生労働省は「時間外労働に関する基準」を掲げている。一ヶ月45時間が限度なのだ。私自身退職までこの限度を軽く超えて働いていた。勤務日に終業時間から毎日2時間越えて仕事するだけで40時間越すのだから。実際にはもっと遅くまで学校にいたし、休日には部活の練習、試合、大学入試のための補習、模擬試験監督、検定試験監督、新入生勧誘のための学校説明会、等々。また過労死の認定に関して、「脳・心臓疾患の認定基準」が定められている。これによれば、発症前ひと月100時間、もしくは2から6ヶ月にわたって80時間の時間外労働は過労死との関連が極めて強い。いわゆる過労死ライン。これに該当する教員は全国数え切れないほどいるはずだ。下で取り上げられている実態調査でも、平均して月38時間の時間外労働。公立中学校教員の15%以上が一日平均3時間以上の時間外労働をしている。
(2)今後必要な取り組み から
②教員の時間外勤務
いわゆる超勤4項目は、現在の教員の時間外における勤務実態とは明らかに乖離が見られ、学校の組織的運営に資するよう、適切に見直していく必要があると考える。今後の超勤4項目の在り方としては、廃止することや必要な項目を追加することなどが考えられるが、学校の組織運営の在り方や教員の職務の在り方についての議論を踏まえて、今後適切に見直しを図っていくことが必要である。
労働関係制度において、仕事と生活との調和(ワーク・ライフ・バランス)のための環境整備が進められており、残業時間の縮減が求められている中で、平成18年の「教員勤務実態調査」の結果によると、昭和41年の「教職員の勤務状況調査」の結果と比べ、教員の残業時間が大幅に増加している状況が判明している。
まずは、学校業務の効率化やスクラップ・アンド・ビルド、学校事務の共同実施、ICTの活用や事務機器の整備・更新、部活動指導、生徒指導、給食指導、学校徴収金などに係る専門的・支援的な職員の配置、外部人材の積極的な活用などにより、教員が担う授業以外の業務を縮減することが必要であると考える。また、学校が抱える課題に対応する適正な教職員数の確保が必要である。
これらにより、通常の学校の業務は勤務時間内で処理できるようにし、時間外における勤務は、学校として臨時に必要となる業務の処理のために限られるようにすることが必要である。
特に、平成18年の「教員勤務実態調査」の結果によれば、中学校の教諭が「部活動指導に従事する時間」は、勤務日の場合は最も多くの時間が費やされている「授業」に次いで多く、また、週休日の場合は最も多くの時間が費やされており、勤務負担の増大の大きな要因となっている。特に週休日の振替が行われずに週休日に部活動指導に従事する場合は、さらにその勤務負担は大きくなる。
中学校などの教諭の勤務時間を縮減し、勤務負担を軽減するためには、部活動指導の在り方について見直していくことが不可避である。
まずは、部活動指導について教員以外の専門的な指導者の活用を促進するとともに、部活動による時間外勤務が可能な限り生じることがないように、校長が適切に管理・監督するよう指導を行うことが必要であると考える。
また、どれだけ時間外勤務の時間数が長くなっても教職調整額は定率支給であるため、時間外勤務の抑制につながらず、無定量の時間外勤務を招いているとの批判もあり、学校業務の効率化などと併せて、教員の時間外勤務が抑制されるような仕組みを作っていく必要がある。
~以下略
制度的な問題点は、文部科学省でもよくわかっていらっしゃる。この報告はその後どうなったのだろう。
文部科学省のホームページにこのような報告書が掲載されているということは、違法な長時間労働を知りながら見過ごしていることを自ら告白しているようなものだ。
注意しなければならないのは、労働環境の「改善」が勤務評定・能力給の導入とセットになって進行している事である。労働時間に関して明確な基準が設けられ休日が保障される代わりに、教員間の強烈な競争が煽られたら・・
私立大学の競争と労働組合の不在
1990年 私立大学のうち定員充足率 90パーセント未満の大学数 1.98%
2013年 同 30.0 % 100%未満だと実に 40.3%
(日本私立学校振興・共済事業団 私学経営情報センターによる)
この統計から見て、現在日本の私立大学で少なくとも30%以上の学校が実質無試験で入学できる。実際受験産業が毎年発表する『大学ランク』でもBF(ボーダーフリー)評価不能、と格付けされる大学・学部は増え続けている。この統計だけでは判別できないが、殆ど全入状態でようやく定員確保している学校もたくさんある。
これは、大変不思議な事である。大学とは研究者の集まりである。高校までの先生は教育に専念しなくてはならないけれど、大学の先生には教育の他に、研究の時間が保障されている。そういう頭の良い人たちである。教育問題を研究されている先生もたくさんいるはずだ。18才人口がどうなるかは少なくとも17年前にはわかっていた。大学進学率の推移も予測が付いた。にもかかわらず、このような事態を招いた。
18才人口はこの23年で201万人から123万人に減った。しかし、一方で大学進学者は49万人から61万人に12万人増えた。大学進学率は25%から50%に上がった。にもかかわらず定員割れが起こるのは、私立大学定員が30万人から45万人に増えたからである。更に、2013年度募集定員の110%以上生徒を入学させた学校は200校、35%もある。
私立大学全体が苛烈な競争に晒されている。競争を自ら進んで行っている。その結果勝ち組、負け組ができる。勝ち組の中には強気の経営拡大を続ける学校が現れ、今も学部の新設、校舎建設をどんどん続ける。例えば立命館大学。
1994(平成6年)年 政策科学部 開設
2004(平成16)年 情報理工学部 開設
2007(平成19)年 映像学部 開設
2008(平成20)年 生命科学部・薬学部 開設
2010(平成22)年 スポーツ健康科学部 開設
一方、募集停止学部、廃校に追い込まれる大学が次々現れる。wikipediaによれば
立志舘大学(2003年閉校)。
東和大学(2007年募集停止、2011年閉校。)
日本伝統医療科学大学院大学(2009年募集停止)
LCA大学院大学(2009年募集停止、2011年閉校)
聖トマス大学(2010年募集停止)
三重中京大学(2010年募集停止)
神戸ファッション造形大学(2010年募集停止)
愛知新城大谷大学(2010年募集停止、2013年閉校)
福岡医療福祉大学(2011年募集停止)
映画専門大学院大学(2012年募集停止)
創造学園大学(2013年閉校)
東京女学館大学(2013年募集停止、2017年閉校予定)
2013年度の統計から見て、このような大学は更に続くことは間違いない。定員の50%生徒を集められなかった学校が17校もある。この競争よって、大学が淘汰されるのは望ましいことだろうか。確かにある程度の緊張感は必要だろう。しかし現在の競争は異様である。
生徒募集のために大学が費やすエネルギーの例。
・入試
AO、推薦、一般A、一般B、など入試の種類が増える。また地方会場開設で入試会場が増える。これにかけるエネルギー・予算は相当なものになると想像する。いわゆる入試問題の作成でエラーは許されないし、問題の質はそのまま大学の質として評価される。また運用は厳正が求められる。にもかかわらず英語など1年に10種類以上作問している大学はたくさんある。このために大学の先生はどれだけ精力を使っているか。
・オープンキャンパス
年を追って回数が増え、時期が早まり、派手で内容が豪華になる。かなり高価な昼食が無料で食べられたりする。実施に大学はかなりの労力とお金を使っている。
・大学説明会
これも、オープンキャンパスと同じく回数が増え、時期が早まり、更に全国にわたり地域を拡げている。入試担当職員ばかりか、教授まで説明に現れる。これも、生徒向けと学校教員向けの2種類がある。また業者が主催するイベントが結構たくさんあり、これにも参加せざるを得ない。また高校が近隣の大学を招いて行う独自の説明会もある。私の勤務校でも、高校2年生向きに1回、3年生向きに1回それぞれ10大学程度の先生を招いて開いていた。仲介する業者がいて、それが出来るのである。全国の高校でこれをやったら大学の先生の出張回数はどうなるか。
・高校まわり
大学の先生が全国の高等学校の進路指導部を回って歩いている。募集資料を配り、大学の説明をし、高校生の受験を場合によっては懇願なされる。いただく名刺を見ると、大学の入試担当職員ではなく教授である場合も多い。中には国立大学を定年退官され再就職された先生にまで出会う。夏の暑い時期、スーツ姿で汗を拭きながらやってこられる。講義や研究はどうされたのだ。
私立大学は学生の納付する授業料によって成り立っている。国の助成金もあるがこれも学生数によって決定される。学生数を確保する、しかもなるべく質の高い生徒を確保しようと思えば、高校生とその保護者の人気を獲得しなければならない。こうして大学は、高校生とその保護者の即自的要求に応える事が至上命令となる。先の、高校まわり、大学説明会で殆どの大学が最初に口にするのは就職率と就職指導である。大学は定員確保の最重要課題として就職指導に取り組んでいる。高校は大学予備校化し、大学は今や「就職予備校」と呼ばれる。また受験者の志望動向に敏感に反応し、学部学科の新設統廃合が頻繁に行われている。時代の流れ、国家の要求に動かされる事ない独自の価値観を把持することが私学の使命であった時代はとうに終わってしまった。理念を堅持しようとしている大学はある。ICUのように昔から評価の高い上位校で比較的規模の小さい学校は、その理念を維持し、世間の評価も得ている様に思う。それでも学生の質と数を確保するために苦労している。偏差値で「中堅」と言われる学校は理念を維持して、学生数を減らす、学生の学力を落とすか、学生と保護者に迎合するか二者択一を迫られている。
高校の教員、高校生、保護者にも責任はある。大学をよりよい就職をするための道具、もしくは学歴ランクをなるべく上げるための機会としか見ていない。良心的な大学の教育は、なかなか伝わってこないし、そのような中身にそもそも関心がない。
最初の統計を引用した日本私立学校振興・共済事業団の様な組織はあるにもかかわらず、競争は防止できない。私立大学全体で入学定員の調整をすればこのような異常な競争は防げるはずだ。現在の私立大学は企業だ。企業と同じ論理で生存競争を行い、勝ち組は拡張を重ねる。コンビニ、家電量販店、ファーストフードチェーンと変わりない。
多くの私学経営者が企業の論理しか持ち得ない事は、残念な事だ。これを仕方のない事としよう。それでは、各大学で研究をしている先生方は何をしているのだろう。
「こんな無駄な競争をやめませんか」
と言い出す先生がなぜ表に出てこないのだろう。労働組合の存在意義のひとつは、経営者から強いられる競争、それによる労働条件の悪化、労働の質の低下を防止する事にある。全国の大学の先生が団結し、経営者と向き合えば、随分の仕事が出来るはずなのに。労働問題の本がたくさん出ているのだから、労働組合に詳しい大学の先生だってたくさんいるはずだ。ご自身の地位保全のためその知識を生かすことが出来ていないから、こういう結果が生まれる。
大学の先生、もっと団結なさってはどうですか。政治的な理念など脇に置いて、大学教員の仕事の質を維持するためにどうして団結できないのですか。
しかし、あまり無責任にこんなこと言えない。高等学校でも姿を変えて苛烈なサービス競争が行われていて、教員組合はこれを防止する機能を殆ど果たせなくなっている。
これが、新自由主義、グローバリズム時代を迎えた教育の現状だ。
新自由主義に対抗し得る、労働運動の創造が求められている様に思う。
雇用契約
シリコンバレーに工場を設立した日本人経営者とたまたま飛行機で隣同士になり、長い時間その経験談を聞いたことがある。最も苦労したのは、職務記述書を含む雇用契約書の作成だったそうだ。米国人は、新たな仕事を命令しても雇用契約書に書いてないことは契約書盾にして絶対にしない。時間と共に雇用契約書はふくれ、数十頁に及ぶ契約書を交わすようになったという。 日本ではどうなのだろう。私はどう雇われているのだろう。
ネットに面白い資料が出ていた。『イギリスにおける職務記述書と雇用契約書』(三島倫八、龍谷大学、2007年9月)資料著者自身が大学における雇用契約の曖昧さを指摘している。
初めてアパートを借りたとき、賃貸契約の面倒くささに驚いた。家賃数万のアパートを借りるにあたって何頁かの契約事項に合意した契約書を2通作成し、実印を押し所有者と一通ずつ保管する。それに比べ、日本の雇用契約は何と安易なものだろう。だから、シリコンバレーで通用しなかった。評論家が消費社会とかポストモダンとか日本社会を規定してみせるが、労働力に関しては、労働力市場の形成さえ十分にできてない。資本主義形成の根幹をなす労働力の商品化が西欧諸国のようには形成されていない。
上司に「新しくこれやっといてくれ」と言われて「雇用契約に含まれていない」と主張して拒否する労働者がどれだけいるか。拒否できる環境にある労働者がどれだけいるか。それなりの法規はあるから、手間かけて訴訟に持ちもめば勝てる場合もあるだろうし、そうしてきた人もいるだろう。しかし社会全般で見ると、「雇用契約に含まれていない」と部下から言われて、要求をその場で取り下げる上司は殆どいないはずだ。私たちは、社会通念に基づく漠然とした合意の下で雇用され仕事をしている。その中には社会的上下関係が絶対であった江戸時代の規範が未だに色濃く残っているように思われる。これは契約ではない。アパートの賃貸契約以下の曖昧な合意だ。
だから労働組合が成熟しない。労働契約の概念がないから、契約条件を巡って雇用者と労働者の折衝する制度がうまく運用されないのは当然だ。自分も同じ労働者で同じように権利主張する可能性があると感じている国民が少ないから、ストライキが国民の支持を得られない。七十年代以降労働組合がなし崩し的に解体され、組合を基盤に成立していた社会党は見る影もない。社会主義国家の衰退の影響も要因だろうが、それでは説明できない。西欧諸国で労働者はストをしている。インターネットを見れば日本語でも多くの報告がある。たとえば、朝日デジタルの記事『フランスはデモとストライキの国』、『中学校の先生たちが突然ぶっちしたストライキ』・・日本人の自己認識は過去に向かって後戻りしているのだろうか。
教員を採用するにあたって詳細な職務記述書(job description をこう訳すらしい)を公開し、これに基づく雇用契約書を作成したらどうなるだろう。たとえば、
・一日あたり30分の残業手当を予め支給する。
これを超える時間外勤務についは手当てを支給しない。
・家庭訪問など必要とあれば勤務時間を超え仕事が深夜に及ぶ場合がある。
・教材研究、試験採点、通知票記入など休日の時間外在宅勤務が必要な場合がある。
これくらいはいいだろうか。更に実態に即して
・ひと月80時間を越える時間外労働が必要な場合がある。
・ひと月7日程度の休日出勤が必要となる場合がある。
と書かれていたら、教員採用試験の応募者はどうなるか。労働基準監督署は許すだろうか。
教員の労働環境を根本から見直すには、職務を明文化しそれに基づく雇用契約を作り上げるべきだ。これを合法的に実現しようとしたとき、とるべき施策が見えてくるだろう。教育の仕事が人間を相手にする微妙な仕事だからこそ、職務の文章化が難しい仕事だからこそ逆に必要なのではないかと思う
学校の役割2
諏訪氏の考えをもう少し追ってみる。同書では同じくプロ教師の会喜人克氏の著作「高校の現実」からの引用で、ある学校の実例が引かれている。学校のモンスターP93
A子は、ある先生の授業を全く聞かなかった。A子に言わせれば、その先生の授業のやり方が気に入らなかったらしい。また、その先生の注意の仕方も気に入らなかったらしい。そういうことをA子は親にも言い、そこで親は、「そんなにひどい先生なら、単位なんか一つぐらい落としたっていい。また別の選択科目で取ればいいんだから」と言ったと言うのである。
このようにして、A子は親も公認で、授業を無視するようになってしまった。それでその先生が「いくらなんでも、出された課題ぐらいは取り組みなさい」と踏み込むと、「あんたの授業なんか受ける気ないんだから」と返してきて、激しい言葉のやりとりになってしまった。
その時に、やはりこれは、学校の秩序に関わるから見逃せないということで、指導をした。それで、本人と親に校長室まで来てもらった。ところが開口一番、親も本人も「相手の先生にも問題がある」と言うのであった。
この事例についての諏訪氏の評価はこんな風だ。
A子さんと学校側の認識の差の所に、まさに学校の持つ「公」性と「私」性の二重構造が隠れているのである。そして問題は教師も親子もその点に無自覚であり、結果としてお互いの「私」の「等価交換」の茶番を繰り返している事である。P96
A子さんやその母親は「この私」の人間形成などに手を出すな、と言っているのである。そこが学校は個体(「私以前の私」)を個人(「私」)にするところだ、と思い込んでいる学校や教師の論理と衝突したわけだ。P102
この事例は、公、個、私、といった曖昧な概念をならべて語るようなややこしい問題ではない。
教師が生徒と社会の変化について行けてないのである。つまり、学校や教師が無条件に尊敬されていた、社会的上下関係を承認し尊重すべしという共同規範が成立していた封建時代の残滓から、頭の切り替えができていないだけである。教師の言うことは全て鵜呑みにしなければならない。教師の側がそう思っている。行き詰まって当たり前である。
「履修登録した授業をきちっと学習しなければならない」というのはこの学校、この先生の極めて局所的なルールであって、決して一般的な真理ではない。現に大学受験に関係のない科目は手を抜いて当たり前で、むしろ学校側から推奨されている場合は現にいくらでもある。履修登録しても思ったような授業でなければ単位取得をしないで済ますのは大学では当たり前のことだ。
学校は生徒が入学するときに、教師は各のクラスが始まるときに、それを成立させるためのルールを明示する必要がある。生徒がそのルールに反する行動に出たとき、ルールを守らないと学校が運営できない、授業が成立しないという点について教師は生徒を指導する。教員は、学校という場で、授業内で、「教える」という役割を演ずると同時に運用ルールの審判の役割を同時に担っている。
学校という共同社会の運営を成立させるための規則はどうしても必要だ。どんな素晴らしい授業も生徒がまず耳を傾けなくては意味がない。同時に、その規則は明示しなければならない。そして教師が語るべき真理は、
局所的な社会を成立するために定められた局所的なルールはその社会に参加する限り守らなくてはならない。その規則もしくはその運用に問題があるなら、定められた正当な手続きをもって意見を述べなければならない。そうでなければその局所的社会は正常な運営ができない。
ということのみである。それが、学校が生徒に求め育てることができる社会性である。
この件の場合、学校でしか成り立たない、もしくは「その学校」「その講座」でしか成り立たない、ローカルルールを、教師の方が「無条件に承認されて当たり前な一般的真理」と思い込んでいることが問題なのだ。そしてこのローカルルール違反を、あたかもその生徒の人間性そのもののようにあつかって指導したのだろう。「私はこのようなルールで授業と成績評価を行う」それを授業に際して生徒に明示しておけば良かっただけのことだと思う。そうすれば「君はルールAに違反した、したがってルールBに示した指導を行う」という風に対処して何の問題も起きないはずだ。
たとえば私の場合、数学の問題演習中は相談をしても良い。むしろした方がよい。他の生徒に教わるためなら教室内歩き回っても良い。しかし、こちらが黒板の前に立って教室全体に話しかけ始めたら、指定された席に戻り話を止めなさい。というようなルールを4月授業始まるときに語る。評価の9割は考査の点数による。1割は課題提出などで補う。授業態度を評価に算入しない。等のこともまず4月に明示する。もちろんこれも教える科目、生徒の質によって適当に切り替える。
現代の学校は、ある一面ではサッカーゲームのようなものだ。ルールが無くてはゲームが成り立たない。ゲームの進行中は審判の判断は絶対である。これもルールのうちで、いちいちクレームを受け入れていてはゲームが成り立たないから。しかし、ゲーム中にボールに手を触れたからといってその選手が極悪非道な人間なのではなく、単にサッカーのルール違反をしただけである。ボールに手を触れてはいけないのは、プレー中の特定の選手特定の場面だけの話で、コートの外から手で投げ入れたりする。キーパーは手で掴む。他の球技はたいてい手を使ってやる。一般的真理ではない。プレー中審判の判断に従うのはそれがルールで、そうでないとサッカーが成り立たないからである。審判が偉いからでも人間的に優れているからでもない。私はこう語って校則を生徒に納得させてきた。またこの論理は現在の社会で有効な論理だと思っている。
現在の学校の規則、いわゆる「校則」とその他不文律、各教員が定める授業ルールなどの中には、このような近代社会での学校のあり方とそぐわない、生徒に説明不可能なものも多い。その代表例は「不純異性交遊」なる規則だと思うのだが。諏訪氏が引いたようなトラブルを避け学校の正常な運営を考えるなら、現代社会に相応しい、生徒に説明可能な運営規則の整理をする必要があるだろう。同時に、明治以来、基本的にサボタージュされてきた「社会における学校の役割」を対象化する作業を、今しっかり行うべきだと考える。
ダンス・ダンス・ダンス
「(略)学校なんて無理に行くことないんだ。行きたくなけりゃ行かなきゃいい。僕もよく知ってる。あれはひどいところだよ。嫌なやつがでかい顔してる。下らない教師が威張ってる。はっきり言って教師の八〇パーセントまでは無能力者かサディストだ。あるいは無能力者でサディストだ。ストレスが溜まっていて、それを嫌らしいやり方で生徒にぶっつける。意味のない細かい規則が多すぎる。人の個性を押し潰すようなシステムができあがっていて、想像力のかけらもない馬鹿な奴がよい成績をとってる。昔だってそうだった。今でもきっとそうだろう。そういうことって変わらないんだ」
「本当にそう思う?」
「もちろん。学校のくだらなさについてなら一時間だってしゃべれる」
ダンス・ダンス・ダンス 上巻P325頁 村上春樹
主人公「僕」と旅の途中で出会った美少女ユキとの会話。中学校に行かないユキに「僕」が語りかける。日本で最も高い人気を誇る小説家の作品中の会話である。この本だけで日本で二百万部位上売れているらしい。もちろん作品中主人公の言葉で、村上本人の言葉ではない。しかし「風の歌・・」から本作品までの「僕」の目線は作者に近い。学校教育の駄目さ加減については彼の小説に繰り返し出てくる。逆に学校に肯定的な意味を与えるような記述を少なくとも私は思い浮かべることが出来ない。彼の読者はこの言葉を共感をもって読むはずだ。がんばって教師やっていた職歴数年の私もある種の爽快感をもってこの会話を読んだと記憶しているし、その印象は今でもあまり変わりらない。
学校って基本的にこんな所、でも日本の子供達ほぼ全員が学校に通っていて、少しはましな場所にするために何かやることはあるはずだ。そう考えながら仕事をしてきた。村上春樹の書物を、私が拘ってきた日本の伝統的共同体意識から離脱した主人公の、社会に対する違和感の表明と新しい生き方模索として読んできた。彼の新刊をいつも楽しみにしている。
否定命令文
教員をしていると生徒に対して、始終否定命令を発することになる。
「欠席するな」
「遅刻するな」
「校則違反するな」
「授業中私語するな」
「授業中居眠りするな」
「宿題忘れるな」
「掃除さぼるな」
「ここに自転車止めるな」
ある時、米国人教員から、英語ではなるべく否定命令を使わないようにするという話を聞いた。例えば
「持ち出し禁止」→「この部屋で使用しなさい」
「立入禁止」→「外側に居なさい」
こういう方が望ましいらしい。それでは、我々が学校で使っている否定命令も言い換えたらどうなるだろうと、思い立ったのが始まりだった。まあ当たり前の言い方だけれども
「毎日ちゃんと学校に来なさい」
「規則ある生活をしなさい」
「校則を守りなさい」
「授業作りに協力しなさい」
「授業に参加しなさい」
「宿題をやりなさい」
「掃除をしなさい」
「自転車は駐輪場に置きなさい」
否定命令は行動の制限である。学校生活で多くの否定命令に出会い、行動を制限されて生徒はうんざりしているはずだ。私でも生徒の立場だったらうんざりすると思う。行動できる余地がどんどん減っていく。否定命令のかわりに行動の指示を心がけるようになって、生徒との関係がちょっと良くなった様な気がする。
同じようなことを言うにしても、肯定的に語れば、何らかの行動のヒントがそこに含まれる。生徒の行動を否定する代わりに、我々が生徒にどのような行動を求めているか具体的に語る方が教育的なのは間違いない。また、否定命令を乱発することで、教員の側がするべき教育を放棄し行動の判断を生徒に丸投げしていることも多い。
「遅刻をするな」
を言わないようにしようとすれば、時計が現代社会で果たしている役割、それに同期して生活するトレーニングの必要性を説明し、時計が近代社会の建設に果たした役割を考えさせる。時刻に同期した生活を作るための方法論、睡眠や食事の心がけについて語ることになる。「それが嫌なら、狩猟採取民になれ」と説教をする。
「級友をいじめてはいけない」
これを肯定的に言い換えるのは結構大変だ。私たちがいかにして共同体を作りうるのか、人間が生き延びるためになぜ共同体が必要なのか、語り起こすべきだろう。どういう人間関係を作るべきか、そのためにどのような行動基準が必要になるか、どういうスキルが必要になるか、生徒にわかるように提示し、必要な訓練プログラムを実施しなくてはいけない。否定命令を使わないように心がける事で新しい世界が開ける。
数学教育で言えば、例えば
「計算ミスをするな」
こう言うかわりに、なぜ計算ミスが生まれるのか、どうすればミスのない計算を素早く遂行できるか、生徒に提示するのは数学教員の腕の見せ所である。
肯定的な行動指示を意識することで、生徒との壁を一枚取り除くことができる。新たな課題を見いだすことができる。比較的経験を積んでからやっと気がついた。