勤務時間についての文科省の認識

学校の組織運営のあり方を踏まえた教職調整額の見直等に関する検討会議

審議のまとめ

から抜粋 下線筆者

2 教員の勤務時間管理、時間外勤務、適切な処遇の在り方

(1)現状と課題 から

①教員の勤務時間管理

教職員間での役割分担と協力関係を作りつつ、学校の組織的運営を行っていく上で、校長や副校長・教頭などが教職員の勤務の状況を把握することは、その当然の前提となるものである。また、公立学校の教員を含む地方公務員には、労働基準法第32条などの労働時間に係る規制が適用されている以上、校長などは、部下である教職員の勤務時間外における業務の内容やその時間数を適正に把握するなど、適切に管理する責務を有している。

さらに、労働時間の適正な把握については、平成13年に厚生労働省が、使用者に労働者の労働時間を適正に把握する責務があることを改めて明確にし、労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置を示した「労働時間の適切な把握のために使用者が講ずべき措置に関する基準」を策定している。これは公立学校にも適用されるものであり、この中で、始業、終業時刻を確認し記録することなどが示されている。

しかしながら、公立学校の管理職以外の教員には、労働基準法第37条の時間外労働における割増賃金の規定が適用除外となっており、時間外勤務の時間数に応じた給与措置である時間外勤務手当が支給されず、全員一律に給料に4パーセントの定率を乗じた額の教職調整額が支給されている。このような現行制度の下では、実態として月々の給与を支給する上で管理職が部下である教員の時間外勤務の状況やその時間数を把握する必要に迫られることが少ない。

また、これが、教員には労働基準法第37条が適用除外となっているだけであるにもかかわらず、労働基準法による労働時間に係る規制が全て適用除外されており、管理職は教員の時間外勤務やその時間数を把握する必要はないという誤解が生じている一因にもなっていると考える。

~以下略

確かに、自分が月何時間働いたか私自身が厳密な集計をした事はなかったし、管理職がそれを把握した事もなかった。『教員には労働基準法第37条が適用除外となっているだけ』との認識は教員自身にもないのではないか。ちなみに労働基準法第36条いわゆる「36」に関して厚生労働省は「時間外労働に関する基準」を掲げている。一ヶ月45時間が限度なのだ。私自身退職までこの限度を軽く超えて働いていた。勤務日に終業時間から毎日2時間越えて仕事するだけで40時間越すのだから。実際にはもっと遅くまで学校にいたし、休日には部活の練習、試合、大学入試のための補習、模擬試験監督、検定試験監督、新入生勧誘のための学校説明会、等々。また過労死の認定に関して、「脳・心臓疾患の認定基準」が定められている。これによれば、発症前ひと月100時間、もしくは2から6ヶ月にわたって80時間の時間外労働は過労死との関連が極めて強い。いわゆる過労死ライン。これに該当する教員は全国数え切れないほどいるはずだ。下で取り上げられている実態調査でも、平均して月38時間の時間外労働。公立中学校教員の15%以上が一日平均3時間以上の時間外労働をしている。

(2)今後必要な取り組み から

②教員の時間外勤務

いわゆる超勤4項目は、現在の教員の時間外における勤務実態とは明らかに乖離が見られ、学校の組織的運営に資するよう、適切に見直していく必要があると考える。今後の超勤4項目の在り方としては、廃止することや必要な項目を追加することなどが考えられるが、学校の組織運営の在り方や教員の職務の在り方についての議論を踏まえて、今後適切に見直しを図っていくことが必要である。

労働関係制度において、仕事と生活との調和(ワーク・ライフ・バランス)のための環境整備が進められており、残業時間の縮減が求められている中で、平成18年の「教員勤務実態調査」の結果によると、昭和41年の「教職員の勤務状況調査」の結果と比べ、教員の残業時間が大幅に増加している状況が判明している。

まずは、学校業務の効率化やスクラップ・アンド・ビルド、学校事務の共同実施、ICTの活用や事務機器の整備・更新、部活動指導、生徒指導、給食指導、学校徴収金などに係る専門的・支援的な職員の配置、外部人材の積極的な活用などにより、教員が担う授業以外の業務を縮減することが必要であると考える。また、学校が抱える課題に対応する適正な教職員数の確保が必要である。

これらにより、通常の学校の業務は勤務時間内で処理できるようにし、時間外における勤務は、学校として臨時に必要となる業務の処理のために限られるようにすることが必要である。

特に、平成18年の「教員勤務実態調査」の結果によれば、中学校の教諭が「部活動指導に従事する時間」は、勤務日の場合は最も多くの時間が費やされている「授業」に次いで多く、また、週休日の場合は最も多くの時間が費やされており、勤務負担の増大の大きな要因となっている。特に週休日の振替が行われずに週休日に部活動指導に従事する場合は、さらにその勤務負担は大きくなる。

中学校などの教諭の勤務時間を縮減し、勤務負担を軽減するためには、部活動指導の在り方について見直していくことが不可避である。

まずは、部活動指導について教員以外の専門的な指導者の活用を促進するとともに、部活動による時間外勤務が可能な限り生じることがないように、校長が適切に管理・監督するよう指導を行うことが必要であると考える。

また、どれだけ時間外勤務の時間数が長くなっても教職調整額は定率支給であるため、時間外勤務の抑制につながらず、無定量の時間外勤務を招いているとの批判もあり、学校業務の効率化などと併せて、教員の時間外勤務が抑制されるような仕組みを作っていく必要がある。

~以下略

制度的な問題点は、文部科学省でもよくわかっていらっしゃる。この報告はその後どうなったのだろう。
文部科学省のホームページにこのような報告書が掲載されているということは、違法な長時間労働を知りながら見過ごしていることを自ら告白しているようなものだ。
注意しなければならないのは、労働環境の「改善」が勤務評定・能力給の導入とセットになって進行している事である。労働時間に関して明確な基準が設けられ休日が保障される代わりに、教員間の強烈な競争が煽られたら・・
 

私立大学の競争と労働組合の不在

1990年 私立大学のうち定員充足率 90パーセント未満の大学数 1.98%
2013年 同 30.0 % 100%未満だと実に 40.3%
日本私立学校振興・共済事業団 私学経営情報センターによる)
この統計から見て、現在日本の私立大学で少なくとも30%以上の学校が実質無試験で入学できる。実際受験産業が毎年発表する『大学ランク』でもBF(ボーダーフリー)評価不能、と格付けされる大学・学部は増え続けている。この統計だけでは判別できないが、殆ど全入状態でようやく定員確保している学校もたくさんある。
これは、大変不思議な事である。大学とは研究者の集まりである。高校までの先生は教育に専念しなくてはならないけれど、大学の先生には教育の他に、研究の時間が保障されている。そういう頭の良い人たちである。教育問題を研究されている先生もたくさんいるはずだ。18才人口がどうなるかは少なくとも17年前にはわかっていた。大学進学率の推移も予測が付いた。にもかかわらず、このような事態を招いた。
18才人口はこの23年で201万人から123万人に減った。しかし、一方で大学進学者は49万人から61万人に12万人増えた。大学進学率は25%から50%に上がった。にもかかわらず定員割れが起こるのは、私立大学定員が30万人から45万人に増えたからである。更に、2013年度募集定員の110%以上生徒を入学させた学校は200校、35%もある。
私立大学全体が苛烈な競争に晒されている。競争を自ら進んで行っている。その結果勝ち組、負け組ができる。勝ち組の中には強気の経営拡大を続ける学校が現れ、今も学部の新設、校舎建設をどんどん続ける。例えば立命館大学。
1994(平成6年)年 政策科学部 開設
2004(平成16)年 情報理工学部 開設
2007(平成19)年 映像学部 開設
2008(平成20)年 生命科学部・薬学部 開設
2010(平成22)年 スポーツ健康科学部 開設
一方、募集停止学部、廃校に追い込まれる大学が次々現れる。wikipediaによれば
立志舘大学(2003年閉校)。
東和大学(2007年募集停止、2011年閉校。)
日本伝統医療科学大学院大学(2009年募集停止)
LCA大学院大学(2009年募集停止、2011年閉校)
聖トマス大学(2010年募集停止)
三重中京大学(2010年募集停止)
神戸ファッション造形大学(2010年募集停止)
愛知新城大谷大学(2010年募集停止、2013年閉校)
福岡医療福祉大学(2011年募集停止)
映画専門大学院大学(2012年募集停止)
創造学園大学(2013年閉校)
東京女学館大学(2013年募集停止、2017年閉校予定)
2013年度の統計から見て、このような大学は更に続くことは間違いない。定員の50%生徒を集められなかった学校が17校もある。この競争よって、大学が淘汰されるのは望ましいことだろうか。確かにある程度の緊張感は必要だろう。しかし現在の競争は異様である。
生徒募集のために大学が費やすエネルギーの例。
・入試
AO、推薦、一般A、一般B、など入試の種類が増える。また地方会場開設で入試会場が増える。これにかけるエネルギー・予算は相当なものになると想像する。いわゆる入試問題の作成でエラーは許されないし、問題の質はそのまま大学の質として評価される。また運用は厳正が求められる。にもかかわらず英語など1年に10種類以上作問している大学はたくさんある。このために大学の先生はどれだけ精力を使っているか。
・オープンキャンパス
年を追って回数が増え、時期が早まり、派手で内容が豪華になる。かなり高価な昼食が無料で食べられたりする。実施に大学はかなりの労力とお金を使っている。
・大学説明会
これも、オープンキャンパスと同じく回数が増え、時期が早まり、更に全国にわたり地域を拡げている。入試担当職員ばかりか、教授まで説明に現れる。これも、生徒向けと学校教員向けの2種類がある。また業者が主催するイベントが結構たくさんあり、これにも参加せざるを得ない。また高校が近隣の大学を招いて行う独自の説明会もある。私の勤務校でも、高校2年生向きに1回、3年生向きに1回それぞれ10大学程度の先生を招いて開いていた。仲介する業者がいて、それが出来るのである。全国の高校でこれをやったら大学の先生の出張回数はどうなるか。
・高校まわり
大学の先生が全国の高等学校の進路指導部を回って歩いている。募集資料を配り、大学の説明をし、高校生の受験を場合によっては懇願なされる。いただく名刺を見ると、大学の入試担当職員ではなく教授である場合も多い。中には国立大学を定年退官され再就職された先生にまで出会う。夏の暑い時期、スーツ姿で汗を拭きながらやってこられる。講義や研究はどうされたのだ。
私立大学は学生の納付する授業料によって成り立っている。国の助成金もあるがこれも学生数によって決定される。学生数を確保する、しかもなるべく質の高い生徒を確保しようと思えば、高校生とその保護者の人気を獲得しなければならない。こうして大学は、高校生とその保護者の即自的要求に応える事が至上命令となる。先の、高校まわり、大学説明会で殆どの大学が最初に口にするのは就職率と就職指導である。大学は定員確保の最重要課題として就職指導に取り組んでいる。高校は大学予備校化し、大学は今や「就職予備校」と呼ばれる。また受験者の志望動向に敏感に反応し、学部学科の新設統廃合が頻繁に行われている。時代の流れ、国家の要求に動かされる事ない独自の価値観を把持することが私学の使命であった時代はとうに終わってしまった。理念を堅持しようとしている大学はある。ICUのように昔から評価の高い上位校で比較的規模の小さい学校は、その理念を維持し、世間の評価も得ている様に思う。それでも学生の質と数を確保するために苦労している。偏差値で「中堅」と言われる学校は理念を維持して、学生数を減らす、学生の学力を落とすか、学生と保護者に迎合するか二者択一を迫られている。
高校の教員、高校生、保護者にも責任はある。大学をよりよい就職をするための道具、もしくは学歴ランクをなるべく上げるための機会としか見ていない。良心的な大学の教育は、なかなか伝わってこないし、そのような中身にそもそも関心がない。
最初の統計を引用した日本私立学校振興・共済事業団の様な組織はあるにもかかわらず、競争は防止できない。私立大学全体で入学定員の調整をすればこのような異常な競争は防げるはずだ。現在の私立大学は企業だ。企業と同じ論理で生存競争を行い、勝ち組は拡張を重ねる。コンビニ、家電量販店、ファーストフードチェーンと変わりない。
多くの私学経営者が企業の論理しか持ち得ない事は、残念な事だ。これを仕方のない事としよう。それでは、各大学で研究をしている先生方は何をしているのだろう。
「こんな無駄な競争をやめませんか」
と言い出す先生がなぜ表に出てこないのだろう。労働組合の存在意義のひとつは、経営者から強いられる競争、それによる労働条件の悪化、労働の質の低下を防止する事にある。全国の大学の先生が団結し、経営者と向き合えば、随分の仕事が出来るはずなのに。労働問題の本がたくさん出ているのだから、労働組合に詳しい大学の先生だってたくさんいるはずだ。ご自身の地位保全のためその知識を生かすことが出来ていないから、こういう結果が生まれる。
大学の先生、もっと団結なさってはどうですか。政治的な理念など脇に置いて、大学教員の仕事の質を維持するためにどうして団結できないのですか。
しかし、あまり無責任にこんなこと言えない。高等学校でも姿を変えて苛烈なサービス競争が行われていて、教員組合はこれを防止する機能を殆ど果たせなくなっている。
これが、新自由主義、グローバリズム時代を迎えた教育の現状だ。
新自由主義に対抗し得る、労働運動の創造が求められている様に思う。

雇用契約

 シリコンバレーに工場を設立した日本人経営者とたまたま飛行機で隣同士になり、長い時間その経験談を聞いたことがある。最も苦労したのは、職務記述書を含む雇用契約書の作成だったそうだ。米国人は、新たな仕事を命令しても雇用契約書に書いてないことは契約書盾にして絶対にしない。時間と共に雇用契約書はふくれ、数十頁に及ぶ契約書を交わすようになったという。 日本ではどうなのだろう。私はどう雇われているのだろう。
 ネットに面白い資料が出ていた。『イギリスにおける職務記述書と雇用契約書』(三島倫八、龍谷大学、2007年9月)資料著者自身が大学における雇用契約の曖昧さを指摘している。
 初めてアパートを借りたとき、賃貸契約の面倒くささに驚いた。家賃数万のアパートを借りるにあたって何頁かの契約事項に合意した契約書を2通作成し、実印を押し所有者と一通ずつ保管する。それに比べ、日本の雇用契約は何と安易なものだろう。だから、シリコンバレーで通用しなかった。評論家が消費社会とかポストモダンとか日本社会を規定してみせるが、労働力に関しては、労働力市場の形成さえ十分にできてない。資本主義形成の根幹をなす労働力の商品化が西欧諸国のようには形成されていない。
 上司に「新しくこれやっといてくれ」と言われて「雇用契約に含まれていない」と主張して拒否する労働者がどれだけいるか。拒否できる環境にある労働者がどれだけいるか。それなりの法規はあるから、手間かけて訴訟に持ちもめば勝てる場合もあるだろうし、そうしてきた人もいるだろう。しかし社会全般で見ると、「雇用契約に含まれていない」と部下から言われて、要求をその場で取り下げる上司は殆どいないはずだ。私たちは、社会通念に基づく漠然とした合意の下で雇用され仕事をしている。その中には社会的上下関係が絶対であった江戸時代の規範が未だに色濃く残っているように思われる。これは契約ではない。アパートの賃貸契約以下の曖昧な合意だ。
 だから労働組合が成熟しない。労働契約の概念がないから、契約条件を巡って雇用者と労働者の折衝する制度がうまく運用されないのは当然だ。自分も同じ労働者で同じように権利主張する可能性があると感じている国民が少ないから、ストライキが国民の支持を得られない。七十年代以降労働組合がなし崩し的に解体され、組合を基盤に成立していた社会党は見る影もない。社会主義国家の衰退の影響も要因だろうが、それでは説明できない。西欧諸国で労働者はストをしている。インターネットを見れば日本語でも多くの報告がある。たとえば、朝日デジタルの記事『フランスはデモとストライキの国』『中学校の先生たちが突然ぶっちしたストライキ』・・日本人の自己認識は過去に向かって後戻りしているのだろうか。
 教員を採用するにあたって詳細な職務記述書(job description をこう訳すらしい)を公開し、これに基づく雇用契約書を作成したらどうなるだろう。たとえば、
・一日あたり30分の残業手当を予め支給する。
これを超える時間外勤務についは手当てを支給しない。
・家庭訪問など必要とあれば勤務時間を超え仕事が深夜に及ぶ場合がある。
・教材研究、試験採点、通知票記入など休日の時間外在宅勤務が必要な場合がある。
これくらいはいいだろうか。更に実態に即して
・ひと月80時間を越える時間外労働が必要な場合がある。
・ひと月7日程度の休日出勤が必要となる場合がある。
と書かれていたら、教員採用試験の応募者はどうなるか。労働基準監督署は許すだろうか。
 教員の労働環境を根本から見直すには、職務を明文化しそれに基づく雇用契約を作り上げるべきだ。これを合法的に実現しようとしたとき、とるべき施策が見えてくるだろう。教育の仕事が人間を相手にする微妙な仕事だからこそ、職務の文章化が難しい仕事だからこそ逆に必要なのではないかと思う

授業プロとしての教員

 授業にたつ教員は、舞台俳優もしくは落語家と似た仕事だ。誰でも教師として登場すれば師であると言うが、それは人間的な人生の師であって学校教育の授業それだけでは収まらない。20人から50人の集団を相手にして行う「授業」は細かな技術の集大成であり俳優と同じように長い修行が必要でありいつまでたっても「終わり」や完成はない。普段はあまり意識しないのだが教育実習生がやる授業、新任の教員がやる授業を参観させてもらうと、指摘したくなるポイントは本当につぎつぎ出てきてきりがない。ドアを開けて教室にはいるところからチャイムが鳴って授業が終わり教室を出るまで、さっとメモをとっても何十項目もあげることができる。その中にはちょっと配慮しなければならないことから、長い時間かけて自然に身に付いていくこと、どの教科でも同様なことと、教える教科で特有のこと、更に教科の中での特定の素材を教えるために必要なこといろいろ。これらのことを身につけながら、プロとしての教員、プロとしての授業を目指す。熱意が一番という人もあるが、人格や熱意だけで技術のない医者が話にならないように、熱意だけでは教師はやれない。
 どこかで、落語家が真打ちになるのに必要な修行時間は一万時間というのを聞いたことがある。これはプロになるために必要な練習時間の目安として、およそあらゆる分野について当てはまることのようだ。プロスポーツ選手になるための練習時間、プロ演奏家になるための練習時間もおよそこれくらい、まあ対数的な感覚で千時間ではとても足りない、十万時間では一生かかるという意味でこれくらいなのだろう。およそ、1日3時間と見て10年。こんなものだと思う。私も、教師を始めて十年たった頃から自分なりの授業が出来るような気がしてきた。教員としての修行も授業一万時間が一つの節目になりそうだ。

教員は役者

 教員となって十年経った頃、予備校講師の模擬授業参観が私の一つの転機になった。予備校の講師は授業のプロだ。授業が受験生に評価されまた教えた生徒の伸びと進路が予備校に評価されて、契約の更新がされ給与が決定するハードな世界を勝ち抜いてきた人たちだ。評価システムの是非、授業内容の是非はともかく、授業技術については学校教員より厳しくトレーニングを積んできたこと間違いない。さてその講師だが、会場に到着して控室に通したときは、神経質で無愛想な中年サラリーマン、ぶすっと黙りこくってこちらの挨拶にもちょっと答えるだけ。意外な人物でがっかりもし、心配した。ところが、生徒の待つ大教室に入るや一変。からっと明るい顔になったと思うや
「やあ君たち!こんにちは。僕を呼んでくれてありがとう!」
そこからノリノリの授業。内容も見事。最後に
「時間が来ちゃったからこれで終わるけど、続き聴きたかったら××予備校で僕の授業受けてくれ、さようなら!」
明るく元気に授業終わって控室に帰ってくると、ブスッ。元の暗い人物に戻り、当然のように謝礼受け取ってさっさと帰って行った。そこで私は授業する者の二重性、役者としての教員に改めて気付かされた。
 教壇に立つのは、私ではない。私が演じるA先生だ。私は、教壇に立つA先生の性格を設計し脚本を作りそれを演じる。一人芝居。誰だって教員はそうしている。問題はこのことににどれだけ自覚的かだ。いわば素の自分、役者として教壇に立つ自分、その二重性を対象化しようとするもう一人の自分にうまく分裂していくことが大切のように思う。更に言えば、素の自分なんて無いわけで、家族と顔合わせているときの自分、一人になったときの自分全部違うキャラクターであるように、教壇に立ったときの自分はまた違ったキャラクターであることを自覚し、利用しどう演出するかなのだ。私自身、どちらかといえば人付き合いの苦手な孤立を好む人間なのだが、教室入ったら生徒に対して思いっきり友好的な明るい教員を演じきるよう心がける。生徒の反応見ながらその場で臨機応変に台本を書き、役者としての自分に指示して役を演じさせていく。数学の授業するA先生、HRでクラス集団を相手にするB先生、個人的に相談にのるC先生と似てるけど多少違った役柄を用意し半ば無意識に使い分けているように思う。この二重性を強く意識するようになってから、プロとして授業技術を磨くことが自身自分の中で上手く整理が付き、教員の仕事が随分楽になり、また楽しくなった。
 数年前新聞で、ロックシンガー目指していたがこの道を断念し教員になったという人の記事を読んだことがある。彼は「教員になってみたら、1日に何と3ステージもライブが出来る。こんなすごいことはない。」と語る。この人はいい教員になるはず。私が長い時間かけて意識するようになったことを、ロックシンガーとしてステージに立っていたからこそ、パフォーマーとして教壇に立つことを感覚的につかめている。教員は役者であり、授業は祝祭だ。パーフォーマーとは単に役者であるだけでなく、生徒を単なる観客ではなく、祝祭の参加者として導き入れる能力を持つことだ。簡単に言えば「乗せる」。生徒と教員が一体となって作り上げるお祭りのようになったとき時間はあっという間に過ぎていく。終了の鐘が鳴って生徒が「え、もう終わり?」といってくれたときほど嬉しいものは無いのだが、一年に数えるほどしかできない。
 大学で受けた授業の中にもそういう授業があった。単に教授が教壇で話をし、数式は黒板に示すだけのごく普通の授業だ。1日1話題90分、その講義が見事なのだ。講義の進行と共に熱が入ってくると教授も上着を脱ぎ声にも力が入る。学生や聴講の大学院生立ち見の同僚教員まで教室全体が興奮し熱くなっていくのがわかる。そして燃え尽きるようにその日の話題が完結して終わる。毎回そういう講義をする教授がいた。これがいかに難しいことか、実際に教壇に立って三十年たち、そのすごさを改めて実感する。

トイレの鏡

 公衆トイレには鏡がついている。手を洗うついでに髪の乱れやネクタイのゆがみを直す。自分の顔を見つめ女性なら化粧を点検するだろう。鏡がなくてはできないことだ。ネクタイのゆがみに気付いて良かったとは思っても、誰も鏡に感謝はしない。鏡があったおかげだと気づきもしない。そんな教員になりたい。先輩に聞いた話だ。