『街場の天皇論』【内田樹】 を読む

「日本国憲法第九条を守れ」という意見はよく聞かれる。一方現行憲法第一章天皇(第一条から第八条)については、これほど鮮明な態度の表明をあまり聞かない。戦後左翼は、天皇制反対の立場を表明してきた。(スターリン時代のコミンテルンテーゼを引き継ぐとの指摘も多い。)その流れを引き継ぐ人たちにとっては、現行憲法第一章は守るべきなのか、廃止すべきものなのか、態度を決めかね口をつぐんできた。これは、知識人の知的怠慢、不誠実のひとつだと思う。態度を決めかねるなら、そう述べ、理由を論理的に語るべきだ。(その例外のひとつとして私が記憶するのは、灘本昌久氏・元京都部落問題研究資料センター長・現京都産業大学教授による『部落解放に反天皇制は無用』<http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/20030425.pdff>である。)また、近年特に平成に入ってから、天皇制について多方面から自由に語ることがタブー視される空気はないか。その中で自主規制が行われ多くが語られなくなったとすれば、これ自身ファシズムの到来を告げるものだ。

その意味で、「天皇制についてちゃんと議論しましょう」と語る本書は刺激的だ。自民党の改正草案<https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf>では、第九条と共に、第一章についても大幅な手直しが行われ「天皇は日本国の元首であり」と書かれている以上、これに関する議論は避けて通れない。私たちは国民投票することになるかもしれない。考えなくてはならないことは多い。草案は具体的な国家建設の提案である。それに対し「現状維持」は有効な政治スローガンとなり得ない。この間の安部政権一人勝ちがそれを証明している。自民党の草案に反対するなら、どこを目指して一歩を踏み出すかについて、実現可能な対案を示すべきだろう。

私たちは、どのような国家を理想とするのか。どのようにしてそれを形成しうるのか。西欧社会は、共同体を基盤とした封建社会から近代社会に移行する過程を数百年かけて歩んだ。革命を含む大衆運動の成果として現行制度ができあがった。それは自然過程だろう。日本はその道を、外圧を受け制度や文化を輸入して、百年で駆け抜けた。その制度は国民が政治闘争の中で了解しながら作り上げたものではない。現行憲法然り。そのことによる歪みに私たちは直面している。

いじめなど学校現場が抱える困難もそのひとつだろう。学校外の社会(共同体的残滓を残した)が担っていた教育力を前提に、学校制度はできあがっている。その社会が急速に変質し教育力を失いつつある。現代日本社会に対応した新しい人と人との繋がりを私たちは必要としている。そこへ西欧の共和制を直輸入して上手くいくものでもないだろう。革命を起こせば何とかなると、議論を先送りすることが全くの空論であったことも、歴史が証明してしまった。固有の歴史性を抱えた日本で、一億人が、どうすれば有効で民主的な意志決定システムが形成できるか、そして天皇制は廃止できるのか。

もう一点、思想的な理想と、政治的に実現可能な政策をしっかり分別して臨む思考方法を私たちの文化は上手く共有できていない。40年前の全共闘運動が「打倒」「粉砕」「革命」など勇ましいスローガンを掲げながら自壊していったように。そのことが未だ真剣に反省されているとは思えない。私たちは確実な一歩をどうやって踏み出せば良いのか。

内田氏は、「鎮魂」「身体」をキーワードとして現行天皇制の必要を説く。数千年にわたって営んできた共同体生活の記憶、共同体の中での生と死の記憶を、実体的な共同体を失った今、どう扱うかが問題なのだという風に私は理解する。村上春樹の小説も、共同体的基盤を喪失した人間の生と死の了解を巡り書き連ねられてきた。その答を政治制度として実現できるほどに私たちの認識は成熟していない。それがいまの危機的状況を生み出している。

私の現時点での意見
天皇制-私たちが新しい社会を展望できるまで、現行憲法の象徴天皇制を維持。
『君が代』-現行憲法の国家観にそぐわない。新しい国歌を。「兎追いし・・」がいいな。
日の丸-アイコンとしてのデザイン性に優れている。
愛国-日本語を含む日本文化をたいせつにしたい。しかし、これらをもって大日本帝国憲法の時代を再現したいとするあらゆる政策には反対。
天皇制に関する議論をタブー視するあらゆる圧力に反対する。

PCの処理性能はこの30年で百万倍を超えて向上している。社会科学はこの30年でどれだけの事を為し得ただろう。

安倍晋三の教育に与える影響-政治に倫理性を

・ 競争相手が窮地にある時は、最大限これを利用しろ。
・ 自分に都合の悪いことは、しらを切る。
・ 議論は、論点をずらし決して負けを認めない。

国政に携わる人々のふるまいが若者に与える影響は、おおきいはずだ。教育は学校のみで行われるものではない。子供たちの生活する社会全体が常に彼らを教育している。この機能が充実している社会を良い社会と言う。まして国の最高意志決定機関である。決定され実行される政策の中身もたいせつだが、その決定過程は、国民にひとつの行動規範として受け取られることになる。安倍晋三は、多くのことを子供たちに教えた。

 かつて『敵に塩を送る』ことが美談として語り継がれて来た国だった。公正さを求める倫理規範は強く根付き、この国の繁栄を根底で支えてきた。安部氏の好きな「美しい国」のうつくしさはこういう所にある。何も日本だけ話ではない。審判の誤審を認めPKを外すシーンを集めた動画『10 Fair Play Penalty moments in Football』は、公開から1年で視聴回数約2千万回。社会は、法律だけによって支えられているわけではない。それを超えた倫理規範が生きているからこそ社会は円滑に機能する。現代社会は、中世以前の社会がその維持のために作り上げてきた倫理規範を前提として成り立っている。民主主義実現の過程で、この規範は書き換えられて来たが、決して廃棄されたわけではなかった。

(日本でこの過程がどうであったか、これが日本の現在を理解する根本問題だと思うが、その大風呂敷はここでは広げられない。)

 学校制度も、その例である。生徒と親が学校を学校として認めるから学校が成り立つ。その規範が崩壊過程にあることが、今学校が抱える最大の問題点だ。パン屋を和菓子屋に変えてまで道徳教育を充実させたい現政権が、自己利益の追求のためにはなりふり構わない。おかしな話だ。子供たちが学校で安倍晋三のように振る舞っていたら、子供たちが学校を自己利益の追求の場としか考えなくなったら、学校は瞬時に崩壊してしまう。教員の失敗に乗じて騒ぎ出す。校則違反をしてもしらを切り通す。授業や学級運営において、この様な生徒を少数派に追い込むこと、集団としての規範意識を作り上げることが、学校教員の最初の仕事なのだ。

もう一つ。現在の文科省は「国際化」教育に熱心である。小学校からの英語教育をますます広げようとしている。(パン屋を和菓子屋にする事とずいぶん矛盾していると思う。充実した日本語教育の方がよほど大切だと思うのだが、それは別項で述べた。)

『グローバル社会にあって様々な人々と協働できる人材,とりわけ国際交渉など国際舞台で先導的に活躍できる人材を養成する。』-第2期教育振興基本計画(平成25年6月14日閣議決定)成果目標5

 国の最高意志決定機関におけるその政策決定過程は、子供たちにとって「議論をすること」の最も洗練された手本になるはずだ。議論には議論の規範がある。民主主義を支える根幹のルールだ。その中には、負けを負けと認める事も含まれる。ストライクを3つ見逃したのにバッターボックスを去らないプレーヤーがいたら、野球は成立しない。『国際交渉など国際舞台で先導的に活躍』するためには、英語を学ぶことよりもまず「議論をすること」とその規範を学ぶ必要がある。そしてなによりこれが民主主義を育てる基本だ。まず国会が議論の規範とこれを守る倫理性を示すべきだ。安倍晋三の「共謀罪」「森友学園」「加計学園」を巡る答弁は、手本となり得たか。

教育に対する悪影響として書いたが、本来民主主義政治の運営は倫理的でなくてはならない。あらゆる可能性を尽くしあらゆる立場をふまえた最善の政策決定をし、それを実行するために。専制政治を廃し国民の民主的意志決定を守るために。

 安部政権の終焉を望む。憲法の解散権が悪用された総選挙を前に。

トランプ大統領の登場から教育の役割をかんがえる

トランプ大統領が登場したとき、橋下徹氏が「知識人の敗北」と述べていた。では、あなたは何者ですかと問いたくなるのはさておき、基本的に正しいと思う。トランプ氏の問題点を云々するよりも、何故「リベラル」が負けたのかをかんがえる方が生産的だろう。


 トランプ氏の政策は自国中産階級の目先の利益を最優先に掲げるものだ。米国において「リベラル」は、この政策を批判しきれなかった。もちろん批判はあった。でも、民衆の心に届くような政策を提示できなかった。もしくは民衆を納得させるだけの論理を展開できなかった。欧州においても、流入する大量の難民と頻発するテロを前にして、極右勢力が台頭、多文化主義は退潮を続ける。日本では憲法改訂を目指す安部政権が国会で圧倒的多数派を占める。なぜ右派が台頭するか新聞でも色々議論されているが、それよりも何故リベラルが無力なのかかんがえるべきだと思うのだ。


 リベラリズムは、単なる理想主義では無い。第二次世界大戦の犠牲者は六千万~八千万人(wikipedia)。二度とこのような惨劇を起こさないための知恵であるはずだ。内部に紛争を抱えた共同体は繁栄しない。大抵滅びる。共同体が共同体として生き延びるために蓄積された経験知の一つとして平等主義がある。二十世紀以降人間の交流(経済)は世界規模になり、地球全体が一つの共同体となる時代が来た。リベラリズムは限られた市場と資源を巡る破滅的な争奪戦を回避するための実践的知になるべきだ。知識人の役割はここにある。狭い地域の利益、時間的に短期の利益の追求と、広範囲のそして時間的に長期の利益との矛盾を示すこと。視野の広い実践的な提言をすることが知識人の役割だと思う。知識人は、単に日常生活を営んでいては見えない遠方を探査し民衆に報告してくれる探検家のようなもの。道に迷って藪に紛れ込んだとき、どちらに進んだら進路が開けるのかを調査する偵察隊のようなものだ。ちょっと良さそうな道が現れたけれども、この道は少し先に進むと深い谷の危険な道に続いているかもしれない。山道を歩いているとこのような場面に遭遇することがある。原子力がその例だ。使用済み核燃料の処理、安全管理、老朽化した核施設の処分などの費用や事故が起きたときの危険性等をいい加減に見積もれば、大変に安いコストでエネルギーを得ることができる。安易に原子力依存を進めた結果どれだけのものを失ったか。我々はどれだけ遠くを見ていたのだろう。また、見えたものを皆で共有できていたか。進むべき道はどこにあるのか。


 知識人はその役割を十分に果たしているだろうか。この道の先に崖が待っている。では、どちらに進むのか。進むべき道を示してきただろうか。安保に関する反対運動で、対米従属の外交方針に反対する、では日本はこの現実世界でどのような外交方針をとるべきなのか。単なる反対ではなく、進むべき道を積極的に示さなければ結局負け続けるのではないかと危惧する。世界大恐慌による不況に直面し、それまで多数派を維持してきたドイツ社会民主党はナチスに政権を奪われる。同じような道をまた世界は歩むのだろうか。


 「知」とはそもそも単なる日常生活からは見えない遠くを見つめる力、物事を深く見る力のはずだ。空間的時間的に視野を広げる力。部族単位の共同体で殆ど閉じていた時代には口頭伝承の蓄積だけで足りていた。その規模の拡大と共に共同体を維持する機構は複雑化し維持のために必要な知も増大する。そこで文字が生まれ文字を扱うことを専業とする集団が生まれる。制度的な文字を扱う訓練の場として学校教育が生まれる。学校教育の役割の一つは、普段の生活からは見えない遠くを見せること、遠くを見つめる力、深く本質を見つめる力を養うことにある。遠くとは、空間的遠方だけでなく、時間的な遠方、未来と、忘れられた、もしくは知られなかった過去にさかのぼることも遠くである。日常生活に必要な知恵の多くは、学校外で吸収できる。言葉を話し服を着てご飯の食べる、他者の気持ちを理解し共同生活を営む、そのために必要な膨大な知識の大半を我々は学校外で学んでいる。江戸以前の日本社会は教育の全てが日常生活の中にあった。もちろん、文字から情報を得ること、数値の複雑な処理する能力を養うことなど、日常生活からでは得られない現代社会への適応能力養成も学校教育の課題だけれども、学校の役割はそれだけではないはずだ。高偏差値の上級学校への進学、より高収入の安定した就職に教育の目標が特化して行くのは恐ろしいことである。


 大学の研究費予算査定が絶望的な情況にあることは多数報告されている。探検隊は探検した先から何を持って帰ってくるか、わかっていないから探検に出るのだ。手ぶらで帰還することだってある。その方が多いかもしれない。探検とは本来そう言うものだと思っていた。短期的な結果の予想できるものにしか研究費が下りなくては、遠くを見ることはできないではないか。何の役に立つかわからないことを調べ、何の役に立つか今はわからないことを教える。これが本来の研究と教育のあるべき姿だろう。


 経済が閉塞すれば視野は狭まる。どんな理想よりも、明日の食料が大切だから。友愛よりも自分が生きることが大切だから。このような時代だからこそ、遠くを見つめ進むべき道を提示する知識人の役割に期待し、遠くを見せる学校教育の役割を大事にしたい

プリンターメーカーの不誠実

 印刷用にキャノンMG6230 を使ってきた。インクがあまりに高いので調べてみると他のメーカーから詰め替えインクが出ている。まず残量を計測するICチップをリセットし、ふさがれている補充穴を用具で開きインク補充するだけ。最初に、リセッターと坑あけ道具の付属した補充インクを買い、次からは補充インクだけ。これで4年間過ごしてきた。カートリッジは最初に付属していたものを使い続けた結果、インク代はおよそ十分の一程度に抑えることができた。

 そのことに腹が立つ。なぜキャノンがやらない。最初からインク補充用にプリンターを設計するのは容易いことだ。カートリッジにインクを補充するにしても、操作しやすいようにカートリッジを設計し、補充終わったら残量計を初期化できるようにすることぐらいやろうと思えばすぐできるはずだが、やらない。その上インクがやたらに高い。(最近大容量タンクを装備したプリンターが多少出回り始めたが、大半は並行輸入品。以前から海外では売っていた!)プリンターを安く売りつけ、高額の「純正」インクで儲けを出している。マニュアルには、純正品以外を使用した場合修理には応じないとの恫喝まで記載されている。

 そこに、今夏エラー番号B200を食らった。「電源を抜いて修理に出せ」とメッセージが出るだけで何の原因も表示されない。調べてみると有名なエラーでcanon error code b200で検索すると、39400件ヒットした。実はこのエラー1年前にも出て今回2回目。前回は、ネット情報をもとに、プリンタヘッドを洗浄し回避することができた。一日水に漬け、一日乾燥させるだけ。今回も同様の処置をしてみたが1回目駄目。2回目もう少し時間をかけてやってみたが駄目。インクで信用できないところこのエラー。プリンタを制御しているCPUのプログラムは、ほぼブラックボックス。適当なところで自爆し買い換えを促す様にできているのではないかと勘ぐりたくなる。 実際修理に出せば1万円以上。プリンタヘッド自分で交換すると7千円、ちなみに純正インクセットは4千円。ところが、昨年9月発売のプリンターMG3630が6千円で買える。そんな馬鹿な話があるか。ここでまた腹が立つ。量販店の店員の話を聞いても、修理に持ち込み費用を聞いて大半の人が新製品に買い換えるという。

 調べてみるとService Mode Tool なるプログラムもネットに公開されていてこれを使うと様々な内部定数をリセットできるらしい。ここまでやる人はほとんどいないだろう。動かなくなった冷蔵庫について、基板を取り出し特定の端子をショートするとリセットできることを知り、直したことがある。廃熱部にほこりがたまって温度が一定の値を超すと止まり、二度と動かなくなるようCPUがプログラムされていた。この仕組み自身は大切なのだけど、使用者が掃除して復旧できても良いではないか。大抵の主婦はサービスマンを呼び、「修理不能だから買い換えなさい」と言われたらそれに従うしかないだろう。

50年前のテレビやラジオの裏面には、配線図が貼り付けてあって、多少電気の知識があれば、その図面を頼りに修理することができた。真空管の時代だ。劣化しやすい電解コンデンサーなどをたどれば大抵直る。高校時代、我が家の白黒テレビを何度か修理した。そうやって10年ほど使い続けることができた。技術が人間に友好的だった時代、メーカーがユーザーに対し多少なり誠実だった時代がなつかしい。

 少数の企業による市場の独占と消費者の都合を無視した利潤の追求、それを可能にする科学技術の高度化・ブラックボックス化。インターネット上には、この陰謀を打ち砕くべくエラー回避の方法を追求したページがたくさん出てくる。がんばってほしい。消費者に不誠実な企業はつぶれるような社会を作らなくては。

相模原殺傷事件に思う

 極度に不快な事件である。こんな事件が現実の世界で起きたことが信じられない。「ヘイトスピーチ」の登場も衝撃だったが、事態はここまで進んでしまったのかと改めて思う。1970年代、「差別は悪である」という規範は一応日本社会を覆っていて、差別は残っていたとしてもそれは隠然と行われ、今の時代のように堂々とその正当性が主張されることはなかったと思う。今回の事件、そしてヘイトスピーチでも感じられるのは「反差別は「建前」で、皆本音では差別しているだろう。私は勇気を持って正直に差別的言動をしてみせる」 という屈折したヒロイズム。

 人間の即自感情の肯定。少なくとも戦後の日本社会にまがりなりにも存在した「反差別」の規範が崩壊しつつある。この事件については実行者の病歴やドラッグとの関係が言われ、保安処分の強化の口実にされようとしている。(実行犯は自分もまたこのようにして差別と排除の対象に追い込まれていくことを想像できただろうか。)しかし、戦後これほどまで露骨な差別事件はなかった。一つのきざしとしてこの事件をとらえると、背筋が凍る。更に言えば、村落共同体の倫理として歴史的に積み重ねられてきた共生の規範が根こそぎ失われつつあるのではないかとさえ思われる。

 皆が個人の利益追求から勝手な振る舞いを始めたら、中世の村落などすぐつぶれてしまう。更にさかのぼれば、余剰生産物を持たない原始共同体にとっては共に生きることは理念などではなく死活問題だったはずだ。人類が富を得て、争いが始まる。そんなことをしていると不幸を招く事を人類は長い歴史的経験から学び、生活規範に組み込み宗教や思想に結晶させてきたのではなかったか。市場原理と競争原理の全面肯定、経済成長第一主義、これらは個人の欲望を無反省に認めることにつながる。理想が「建前」に矮小化されされ、その「建前」すら失われつつある時代を迎えているようだ。これはまるで原始共同体以前まで我々の文化を後退させることにつながるのではなかろうか。

 世界規模で見ると、地球は飽和状態である。世界中の人間が日本人と同じ生活を始めたら、瞬く間に資源は失われ地球環境は破局を迎える。グローバルな意味では人類の状況は原始共同体の抱える状況に近い。同時に資本蓄積は進行し、巨大資本は小国の資産全体を遙かに上回る規模に成長した。素人である私の勝手な思い込みかもしれないが、新自由主義は、世界経済の飽和状態が生んだもののように思われる。分かち合うより奪い合え!(更に、力のある私たちが奪い取っても当然でしょうと。)資源争奪戦は、中東では1990年代から始まっている。状況を放置すれば、資源争奪は激化する一方となるだろう。これを終わらせ、戦争を回避するためだけにも、我々がこれから平和に生きていくための具体的な行動が必要だ。言い換えれば、地球規模で平等思想を立て直すこと。そして具体性のある実践プログラムを提示する努力が求められている。

『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 (E.トッド)』
は革命以来のフランスの平等主義がいかに脆弱なものであるか、簡単に排外主義に転化するかを語る興味深い書物だ。(文章は読みづらい。もっと上手な日本語訳ができると思うのだが。)これを読んで改めて平等について考えさせられた。どのような範囲で平等を語るのか。人種、国籍を超えて平等を語れるのか。また、どのような状態を平等と言うのか。政治的権利か、経済状態か。仮に、全世界の人類の平等を理想としたとき、所得の平等は実現しうるだろうか。平等を実現するために「先進国」の国民が生活水準の大幅後退を容認するだろうか。現にヨーロッパで起きている移民問題、排外主義は、そのことの難しさを示してはいないか。

『戦後政治を終わらせる(白井 聡)』
 反知性主義を「知的なもの、知的ぶったものや人に対する反感」と定義している。反感を呼ぶ責任の半分は、日本における「知的なもの」そのものにある。日本におけるリベラル知識人の知的怠慢がここにきて露呈したと見るべきだろう。同書にはこんな指摘もある。オランダ人ジャーナリスト、カレル・ヴァンウォルフレンの発言を引用している。

社会党は、現実路線を取ることができず、空理空論ばかり唱えるから駄目になってしまった。(P88)
社会党や大江健三郎さんは日本の保守政治を批判してきたけれども、言っていることはまるで非現実的で、GHQの言っていたこととほとんど変わらない・・・(P89)

昨年度の「集団的自衛権」を巡る動きにしても、スローガンは「平和憲法を守れ」「戦争法案反対」。安部政権の中国敵視政策を具体的に批判し、どのような外交戦略が可能なのかを示すような言説はごくわずかであったように思う。中国敵視政策に対抗するスローガンは「日中友好」しかあり得ないではないか。(日本人がみな安倍晋三と同じ事を考えているわけではないのと同様、中国人がみな習近平と同じ事を考えているわけではない。)「憲法を守れ」と言うが、憲法一条から八条までをどうするのか。当面棚上げなのか。
私たちは平等の内実について考察せず、言ってみれば理想郷や天国を語るようにあこがれとしての平等を口にしていた。江戸時代までの村落共同体の倫理に、西欧の平等主義を接ぎ木して分かったような気になっていた。日本の経済成長が止まり経済格差が広がれば、理想としての平等はリアリティーを失い、その脆弱性が一挙に露呈する。
 反知性主義を巡っては別項でも書いたが、今の情況を招いた責任の少なくとも半分、は戦後リベラルを自認する政党、学者、知識人、マスコミ、それらのもとで動いてきた学生運動の担い手、特に「団塊の世代」にある。そう思う方が実践的ですよね。批判するより自らを変えていく方が可能性がある。

『自閉症の脳を読み解く(テンプル・グランデン)』
 人間の脳機能がきわめて多様であることをMRIなど最新の医療技術の成果をもとに解説。そして多様性を基盤に置いた教育の必要性を訴えている。戦後教育は「能力・資質の均等」暗黙の前提に進められた。平等主義はこの前提の上に成立していた。「やればできる」は今でも教員の常套句だ。しかし我々の資質は、田んぼで育つ稲のように均質ではない。そのことは子供たちが一番よく知っている。平等理念の底の浅さを、言葉にならなくても体感している。このような平等主義は、「教育の成果は個人の努力の結果でありその個人に還元されて当然」とする競争原理に簡単に絡め取られる。
人間の多様性を前提とした強固な平等主義の確立が、教育の直面している課題であろう。そしてその理念に基づいた機構の再編。平等がきれい事でなくなるために。優生思想と本気で対決しながら多様性の承認と平等を実現することは大変に難しい。項を改め少しずつ考えていきたい。

 資源の争奪を回避し70億人の人間が平和に暮らしかつそれが持続できるために、多様な人間がその多様性を生かしながらも平等に暮らせる社会を実現するために、私たちは莫大な課題をかかえている。「革命」が一挙に解決すると信ずるような知的怠慢を避けよう。できることから一歩ずつ前に進むことができたらと思う。そのような実践の積み重ねが、いつかは大きな社会変革を生むことになるかもしれない。

穴埋め算-ダウンロード

穴埋め問題が苦手な小学生のために制作。中学で方程式の変形を習えば、無用となる技術だけれど、計算・計算の順序を理解するには助けとなるか。まず基本となる6つの逆算を確認する問題、1桁~2桁の問題、2桁~3桁、それぞれ計算1つを含むものと2組の計算のみの問題などを用意。[F9]キーで乱数再発生再作問できます。

『田の字表』(かけわり図・4マス図)を使った割合指導-ダウンロード

かけ算、割り算、速度、割合の指導に『田の字表』が最も有効であることは、他ページで述べた。
ここでは、皆さんの実践研究の材料にしていただきたく、実際の練習プリントを掲載する。ここにあげたプリントは算数につまずいた中学生および小学校高学年生徒対象に作成・使用したもの。大変効率的で抜群の効果をあげた生徒もいる。

他と同様マクロは使用していない。[F9]で再計算するよう設定してある。

まず、『田の字表』に慣れる計算練習。同時に100までの数の因数分解に慣れることを目標に、九九より少し広い数まで出題対象にしてある。

応用問題。数字だけ置き換えられるようにしてあるので、文章が少し変な所がある。適当にいじってお使いいただきたい。かけ算・割り算の応用問題で『田の字表』の単位感覚、かけ算・割り算の構造がつかめれば、割合・速度の概念修得は目前。

次に「倍」の計算。倍が小数や分数になれば、割合・%なのだから、整数の「倍」計算にまずは習熟しておきたい。「倍」を「時間」に、「単位量」を「速度」に変えれば、速度と時間の関係に繋がる。

「パーセント」の計算。%を100あたりの量として教え、田の字左下に100を入れる方法もあるが、これまでの経験では

25%=0.25倍

と処理して、かけ算・割り算と同じ計算をする方がわかりやすい。値はすべて整数値、数値の易しいものと難しいもの、処理順に分けたものと混合したもの、4種。小数割り算の余地は、作れなかったので、割り算は計算用紙にやらせている。

「速さ」の計算。速度は、単位時間あたりの距離=1あたりの量だから、『田の字表』の扱いに慣れていれば、低学年のかけ算・割り算の延長として子供は簡単に理解する。いわゆる「はじき」、T字型の図式を捨てるべきだ。処理順と混合の2種。

分数倍の計算。エクセルで分数を表示するのは面倒。特に柔軟な問題入れ替えが難しいので、混合問題も順番固定。大小から計算を推定できない問題で、『田の字表』は強力な武器になる。

通分の練習-ダウンロード

 分数足し算のトレーニングペーパー。小6から中学生までずいぶん使ってきた。これらの計算は繰り返しやらせるしかない。
 重複を避けるため分母の組み合わせはマクロを用いて作った一覧表から選択し、最小公倍数の小さい方から順に出題します。難度は2段階選択できます。アップにあたってワークシートを整理しました。ワークシートを使った作問システムの一例として見て下さい。